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マイノリティの強者はどうしても四面楚歌になる
マイノリティの強者はどうしても四面楚歌になるのだなとつくづく思う。『虎に翼』のことだ。全話どころか半分も見ていない視聴者だったので本格的に論じる資格はないが、一作品でこれほどまでに分断が広がってしまうことに少し絶望感を感じた。良くも悪くもマイノリティ讃歌ではあるが、あそこまで「ポリコレ」作品と揶揄されるのかとも思った。
制作者からしても、“当時は問題視されていなかったマイノリティに光が当たるのはおかしい”、“リアリティを感じない”などといった反応は予想通りだったのだろう。それをかわそうとあらゆる手を講じたことも見て取れた。それでなくてもマイノリティの強者が浮き上がってしまうことを制作者側が苦慮し、工夫を凝らしているのだなということがよくわかった。
例えば、親友(森田望智)を単なる「兄嫁」呼ばわりしてしまったことや、これまで自分が批判していたはずの「家父長」そのものに自分もなってしまったことで主人公(伊藤沙莉)の浅薄さも浮き彫りにしたことである。但しそれは思慮の足りなさというより限界も晒そうという表現だろう。ただそれでもマジョリティ(マイノリティも)の弱者からすればやはり鼻についてしまうのだ。
そこで、制作者の意図は分かった上であえて提言する代表的な3人の意見を提示してみた。その1人青木るえかは『虎に翼』を憎む人たちと「とらつば絶賛派」の分断を憂いている。『エルピス』をも含めて、「“立ちはだかる体制”に抗おうとするストーリーで、実在の事件を“都合よく使う”ことを見せられた時の、“居心地の悪さ”」を感じながら、「そんなことを感じさせないためのうまい作劇はなかったのか」と惜しんでいる。でも恩師と分かり合えなかった主人公を見てはじめてリアリティを感じたことも告白している。「他人となんて分かり合えないそのことを思い知らされた朝ドラ」というタイトルを晒しながら。(『週刊文春』2024年10月17日号/文春オンライン10月12日「テレビ健康診断」青木るえか)。
サムソン高橋もその1人だ。「近年稀に見るwoke ※1ドラマだった」と揶揄しながら
「『虎に翼』自体、過去を通じて現代を描くという手法のドラマなので、この違和感は想定済みだろう」と理解を示す。この手法を用いないと、当時もあったはずのマイノリティが透明化され、なかったことにされてしまうからだ。
そしてサムソン高橋も同じ同性愛者である登場人物(戸塚純貴)に着目しながら(魅力も感じながら)自分とかけ離れすぎて当事者としても距離感を感じることを吐露している。
「悪いドラマではない。しかし、落ち着かない。そんな気分になったのは、何よりこれが『正しいマジョリティ』の視線で作られたものだからなのだろう。そして『虎に翼』自体が恵まれた知的エリートが闘う物語であり、それは現代のリベラルが私のような底辺の弱者に疎まれる大きな理由でもあるからだ。」
ちなみにサムソン高橋は「最高のコタツ記事を目指す」あの能町みね子の婚約者でもある。
最後の1人であるCDBが杞憂しているのは、『虎に翼』や、それと同様にリベラルでダイバーシティな属性を持つ作品が評価される一方、観客たちは救済されることなく分断が深まることである。その作品というのは、物流産業の搾取と矛盾にヒロインが反旗を翻す映画『ラストマイル』だが、CDBの要望は、上記2人の『虎に翼』への評価や違和感とほぼ同じである。
「最初に書いておくと、志の高いエンタメ作品として日本映画の中でかなり高い水準の位置にあるとは思う。(中略)物流業界の労働賃金問題というあまり大衆ウケしないテーマを大作劇場映画にするというのは『利益より理念』を取ったともいえ、高く評価すべきところだと思う」
とこのように高く評価をしながら、
「正直いえば、筆者はかつて働いた流通業界末端の仲間たちに連絡をとり『さあ、この映画を見て立ちあがろうぜ』と呼びかける気持ちにはなれなかった。(中略)、この映画は物流業界の末端で削られていく人々ではなく、冷房の効いた部屋で本を読み、批評を投稿する知的階層の高い人々に『パンがなければストライキをすればいいじゃない』という高みから見下ろす視線だけを残して消費されていくのではないか。感動と称賛の批評の中で、筆者の目には流通末端の人々の苦い笑いと、暗い怒りの表情が幻のように浮かんでは消えた。
そうならないよう、脚本から監督までの作り手が考え抜いて必死で作り上げた映画なのはわかる(中略)
もとから意識が高くリベラルな3割の人々が、作品によって100の意識を120に高め、7割の人々はただそれに舌打ちして背を向ける。必要なのはその3割の人々が高い意識をさらに高めるための物語ではなく、保守的な7割の人々がほんの少しだけ心を動かす物語なのだ。
筆者も2作品を大絶賛しているわけでもないし
3人の意見に概ね賛同出来るのだが、それでも上手く言えないが釈伝としない部分がある。サムソン高橋が「過去を通じて現代を描くという手法」と示しているように近年、朝ドラでは実在の人物を仮名にすることで史実をフィクションにするという離れ業を用いるが、3人とも(特にサムソン高橋とCDB)『虎に翼』(『ラストマイル』)の制作者の意図は十分分かっていてもそのやるせなさをぶつけるしかなく、筆者もそのルサンチマンにシンパシーを感じつつも3人の立ち位置にも疑念を感じてしまうのだ。自分は声なき声でなくてもその代弁者のつもりになっているようにも思えるからだ。
自称底辺の弱者であるサムソン高橋のようなマイノリティも、マイノリティでないマジョリティも、強者と思われているマイノリティを疎んじながら、決して頂点にいるマジョリティを疎んじることはない。わかっていても損になるからだ。頷ける反面、意地悪に聞こえるかもしれないが、いい定位置についたなとも思える。少なくとも一般人よりは多くの人に読んでもらえる場があるのだからマイノリティの強者の部分もあるだろう。強者になったマイノリティはともかくとして、這い上がって強者になろうとしているさらに少ないマイノリティには誰も味方がいない。3人は本当に“末端で削られていく人々”に近いのか?本文を読んでかつての仲間は本当に喜んでくれるのか?誰も味方にならないから強者になったマイノリティは弱者に冷淡になってしまう。まさに永遠のループである。
※1多様性や公正さを重視する人たちを『ウォーク(woke)と読んで「意識高い系」と揶揄する傾向