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もう『草燃える』への叛逆になっている

 「祐親は見逃してやってくれ。あんな爺さんでも俺の身内なんでね。」(第9話「決戦前夜」)

 これはトレンドに入りそうな台詞だなとは思ったが、正直ひっくり返りそうになった。
 頼朝(大泉洋)が平家方として敵対した伊東祐親(浅野和之)を討伐しろと和田頼盛(横田栄司)と畠山重忠(中川大志)に命じたのが発端だが、三浦平六義村(山本耕史)が祖父である祐親を助けようとしたときに義盛と重忠に向かって発した台詞である。なぜひっくり返りそうになったかと言うと同一人物の平六(藤岡弘、)が『草燃える』第10話「鎌倉へ」では

 「あんな奴ら縁者とも思わん。全く生き恥を晒しやがって」

になっているからだ。まあこの平六は最初から頼朝を担いで利用することに積極的だったので当然かもしれないが。
 これまで筆者は『鎌倉殿の13人』は『草燃える』の落穂拾いをしているなどとまるで平和ボケしたような言い方でお茶を濁していたが、訂正しよう。落穂拾いを通り越して、ほとんど敵対関係になっている。
 中島丈博が史実に記載されていないことを自由に創作するように三谷幸喜もそれに則ってないものは意のままに創り出す。よって『草燃える』で創作したものは全て作り変えるつもりなので、関連付けしながら180℃違う台詞が出てくるわけだ。オープニングすら対照的になっている。内容は陰惨な『草燃える』のオープニングは何故だかメジャーコードの曲であるのに、一見爽快な『鎌倉殿の13人』のオープニングはマイナーコードの曲なのだ。

 「伊東祐親を召し捕って参れ!手向かいすればその場で切り捨てて構わん」と『鎌倉殿の13人』での頼朝は義盛と重忠に命ずるが、『草燃える』の頼朝(石坂浩二)は何と政子(岩下志麻)の懐妊(頼家)を機に三浦家に預けられていた祐親(久米明)と祐清(なんと橋爪功!)に恩赦を行おうとするのだ(実際『吾妻鏡』でも三浦家の嘆願によりそうなっている)。「かつて祐親に男の子を殺されたわしがそなた(政子)が懐妊した今、昔のいきさつを水に流して許そうというのだ。これこそ誠の意味での恩赦だ。」と。それなのに大泉版の頼朝は第1話でまだ心を許していない小四郎(小栗旬)には「それがあれ(千鶴丸)の定めだったのだ」と悲しみも怒りも見せないが、従者の藤九郎(野添義弘)には「伊東祐親、決して許さぬ」と怒りを露わにする。三谷は『吾妻鏡』に残っている「恩赦」のことは例え頼朝の政治的な判断であれ、ちょっと嘘っぽいと感じているのかもしれない。

 「よう来てくれた!」義経(菅田将暉)を抱き締め本当に涙を流す頼朝にも正直驚いた。皆が待ち望んでいた、2人の黄瀬川での初対面エピソードだ。どうせ義経は号泣して、頼朝はまた嘘泣きするんだろうとたかを括っていたが、ここも裏をかかれた感じだ。この思いがけない対面シーンに至るまでの頼朝の心の動きが丁寧に描かれていたからだ。所領と一族が全てである坂東武者と、敗軍の将の子で権威しか持たぬ頼朝の間に流れる川はあまりにも広いことは頼朝も知っている。が身内になった時政(坂東彌十郎)や小四郎によってそれを改めて思い知らされると結局は「とどのつまりはわしは一人ということじゃ。流人の時も今も」という心境に至るのだ。そしてその時義経が現れるというのが三谷の筋書きである。『鎌倉殿の13人』ではこれまで頼朝の嘘泣きシーンを強調していたので、その点に関しては『草燃える』を踏襲するだろうと思っていたものの、そこは良い意味で裏切られた。ずっと無視されていた武田信義(八嶋智人)を取り上げたことも、ある意味『草燃える』での意趣返しとも取れるし、「十郎枠」とも言われているあの善児(梶原善)のこともそうとも取れる。十郎(瀧田栄)は殺戮を行う度に誰かや世間に吠え続けるが、善児はほとんど言葉を発せず自分の考えを決して露わにしない。八重姫(新垣結衣)を逃がそうとする江馬次郎(芹澤興人)を祐親の命で刺殺するときも、
 「旦那様から固く申しつけられとるもんで悪う思わんでください」としか発しない。そして十郎とは対照的に目も死んでいる。狂気の表現もあえて変えているのか?最後は琵琶法師と違う形で現れるのか?これも『草燃える』へのアンサーソングなのだろう。

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