出た!肩ポン
知る人ぞ知る『草燃える』のクライマックス、第49話「実朝暗殺」での小四郎から平六へのあの肩ポンシーンこそ、ピカレスク大河ドラマ史上最大と思っていたのは筆者だけではないだろう。
三谷幸喜は、自作第45話「八幡宮の階段」の”実朝暗殺”ではこの場面のみあの肩ポンシーンに寄せているが、それ以外はほぼわざとはずして描いていたようだ。
まず小四郎が実朝右大臣昇任を祝う鶴岡八幡宮拝賀式における太刀持ちの役目を降りた理由についてだが、『草燃える』は『吾妻鏡』を採用し、『鎌倉殿の13人』は『愚管抄』を採用している。つまり、『草燃える』では、小四郎(松平健)が具合が悪くなって源仲章(小倉馨)に変わってもらった(本当は公卿の実朝襲撃計画が露見したから急遽仲章に押し付けた)が、『鎌倉殿の13人』では小四郎(小栗旬)が自分の都合で退席したわけではなく実朝に中門にとどまるように命じられている(ドラマ内では生田斗真演じる仲章に実朝の命だと言われ交代している)。
細かい違いも沢山あるが、一番大きく違うのはなんと言っても黒幕説である。簡単に言えば『草燃える』での黒幕は藤岡弘、演じる平六だが、『鎌倉殿の13人』では結果的には寛一郎演じる公卿ということになっている。
そもそも『鎌倉殿の13人』における北条への三浦と公卿の態度は『草燃える』と正反対なのである。『草燃える』では公卿(堀光昭)も平六も面従腹背で、将軍になりたい野心など微塵も出さずに全て仏に身を捧げていることを示しているし、公卿と駒若(京本政樹)など砂浜に朽ち果てた実朝(篠田三郎)の幻の船をラブホに使ってこっそり謀反の話をする羽目になっている。しかも千日の参籠で呪詛まで口にするくらい極秘になっているし、平六も徹底的に野心を隠しながら爪を研いでるのが現状だ。それに比べると『鎌倉殿』では公卿どころか平六(山本耕史)すら堂々と公卿こそが後継者だと口にするし、小四郎や政子(小池栄子)の方が気を使って朝廷から迎えることを必死で隠していること自体が笑ってしまう。これは本当に同じ世界を描いているのだろうか?この違いは一体なんだろう?まあ口にしないことは他にもあるから口にしてもいいと踏んでいるのだろうけど、それにしたって…
「惜しいですな。あのご気迫(公卿のこと)、別の世に生かせたら…」
「義村!…」
「八幡宮の別当になっていただいて私もホッとしているところ。尼御台、公卿殿のことはお目にかけてくださいますよう乳母夫の私からもお願いしとう存じます」
あれは尼御台の反応を見ようと、粉をかけてみたが、案の定尼御台の反応は芳しくなかったので、素早く引っ込んだわけである。
以上が平六と公卿の両作品での実朝暗殺前夜における差であるが、引き続きその差を論じたい。
政子は史実でも実朝の後継問題のことで上洛して藤原兼子と交渉しているので、後鳥羽の皇子を世継ぎに迎えることは、両作品ともそれを是としている。
だが両作品での小四郎の見解はかなり違う。拝賀式を迎える時点では、『草燃える』での松平版の小四郎は朝廷にも特に反感を持っていない。三浦を始めとする御家人たちを牽制したいこともあって平六にも保子にも知らせずに、後鳥羽(尾上辰之助)の皇子を世継ぎに迎える話は姉と同様極秘に進めている。だが『鎌倉殿』の小栗版の小四郎は、全ての元凶ということになっている仲章の後ろにいる朝廷に反感を持っているので、世継ぎを迎えることには密かに反対している。但し『草燃える』では触れていないものの、仲章が二重スパイだという仮説はなきにしもあらずである。
そして両作品とも政子は世継ぎの迎えを是としている一方、妹である阿波の局は両作品とも反対なのである。『草燃える』での真野響子演じる保子は、乳母の職業に誇りを持っているので実子時元を世継ぎに据えようとは考えてはおらず(時元は登場すらしていない)、それどころか多岐川裕美演じる御台所を焚き付けて草食実朝子作り作戦に導こうとすらするのだ。よって後鳥羽の皇子を世継ぎに迎えるなど断固反対で、そのためには後鳥羽に忖度していつも2人を引き離そうとする御台所の乳母を撃退することが先決なのである。
『鎌倉殿』の宮澤エマ演じる実衣も世継ぎの迎えに反対だが、保子とは違い乳母としてより母としての面が強く出ている。実朝の子作りにはさほど期待せずに、実子の時元(森優作)を鎌倉殿にしようと目論んでいる。つまり公卿の乳母夫である平六もライバルなのである。
そして当事者である実朝の方もなぜか反転していて、『草燃える』での篠田版の実朝は常に狙われる命をどう長らえるかを考えている。公卿が命を狙っていることが発覚した年の暮れに泰時(中島久之)は、実朝に知らせようとするが、小四郎も五郎(森田順平)も
「御所はお心が繊細でいられるので煩わせるな。警護に眼を光らせればいい」と応じてくれない。小四郎は
「公卿だけを捕らえても仕方がない。その背後に動いているもの(平六)を始末しなければ。」と。
ところが『鎌倉殿』での実朝(柿澤勇人)は信じられないくらい不用心で、朝廷から養子を取ることを堂々と公卿に話すのだ。周りの大人がどう隠しても感じ取ってしまう篠田版の実朝は、今は亡き長姉大姫(池上季実子)に似て著しく敏感で、好青年に振る舞う公卿にも暗い影を見るのだ。
柿澤版の実朝は兄の死の真相を知らない設定だが、篠田版の実朝と比較されるとどうしても鈍感に見えてしまう。『草燃える』の小四郎や政子は公卿にあたふたしている様子はないが、実朝が朝廷から世継ぎを迎えることを話さないところはきちんと押さえている。
「いずれ京へ行こうと思う。ゆくゆくは御所を西に移すつもりだ。」と漏らす実朝、当初はそこまで京への肩入れはない。この実朝は泰時が好きなので、京から御台所を迎えることには気が進まなかったはずだ。だが自身が同性愛者だと打ち明け、理解者となってくれた御台所(加藤小夏)への感謝もあって、彼女の甥を世継ぎにすることに決め、父とも兄とも慕った義盛(横田栄司)も殺されたことで、叔父小四郎への反感も募り、次第に朝廷へと傾いていく。康信(小林隆)に口を割らせる前は兄の死の真相すら知らない実朝は無垢過ぎた。だが、篠田版の実朝は、朝廷への憧れはその反比例に期待が萎んでゆく。『吾妻鏡』と同様に自分の意思で御台所を迎えたが、後鳥羽の思惑で引き裂かれ、急速に憧れは萎んでゆく。その後御台所と和解するが、御台所自身も朝廷へ疑問符すら付けるほどの成長を遂げ、彼女のリードで、「子供は作らない」と頑なだった実朝の心も雪解けの様にほぐされ、暗殺直前には朝廷へのこだわりはなくなっている。御台所との交流にわずかでも希望を見出し命を永らえる欲も芽生えるのだ。
自分の命は長くないと思っていた実朝は、自分を殺そうとしているのは他でもない叔父の小四郎だと思っている。将軍家の後継が決まれば叔父にとっては自分は用のない人間になるだろうし、渡宋計画といい官位の昇進といい叔父の気に入らないことばかりする自分を兄にしたように同じことをするだろうと読んでいた。公卿に暗い影があることを知ってはいたが、実朝にとって甥はダークホースだったのだ。
確かに柿澤版の実朝は第44話「審判の日」までは、篠田版の実朝よりはるかに鈍かったが、殺される直前は必ずしもそうではない。篠田版の実朝からすると公卿は結局ダークホースだったが、柿澤版の実朝はたとえ公卿と和解できたとしても殺されることはわかっていたからだ。「出でていなば主なき宿になりぬとも軒端の梅よ春を忘るな」という事実上の辞世の句を残していたことが証左だ。だからある意味最後の一瞬は篠田版を超えたことが出来たのかもしれない。しかも実朝は公卿に殺される仲章を見ても全く驚かない。『愚管抄』を採用して、実朝が小四郎に中門にとどまらせるように命じたことがドラマの中では事実なら、よく言えば「審判の日」で公卿に語ったように叔父に裁きを受けさせることを考えたのかもしれない。おそらく三谷も『草燃える』の中島丈博も太宰治(『右大臣実朝』)も籠の鳥ながら羽ばたこうとする聖人伝説を描いたのだろう。
厳密に言うと実朝の暗殺場所は『鎌倉殿』の方が正しい。実朝が参拝を終えて石段を降っているときに公卿に襲撃されるのだが、『鎌倉殿』では帰りの降りの行列で襲撃され、『草燃える』では大階段の昇りで襲撃されている。
泰時は、他の登場人物に比べれば、両作品の違いは少ないし、実朝への忠誠心は同様だが、それでもあえて変えている。『草燃える』の中島久之演じる泰時も実直に描かれていたが、のちの名君への片鱗は抑えられていた。あくまで愚直なままで父に拝賀式の取りやめの進言はするが一掃されてしまう。泰時はこの時点でも父に「女を知らない」と言われていた。妻子もいるのにひどい扱いだ。それでも公卿が誅殺された時点でもう三浦は攻めてこないと判断出来るなど決して無能には描かれていない。
「御所!お取り止めを」と必死に呼び止めようとするが、実朝は泰時を振り切り、あたかも逍遥として八幡宮の石段を登っていく。ゴルゴダの丘を登っていくように。
『鎌倉殿』での坂口健太郎演じる泰時も、史実上暗殺を阻止することは出来ないが、警護を増やそうとしたり、計画を阻止する努力は改善されている。
「太郎のわがままをお聞き届けください」と護身のための小刀だけは持たせるのだ。
実朝の辞世は、菅原道真の「東風吹かばにほひおこせよ梅の花主なしとて春を忘るな」の本歌取りだが、実朝が泰時を同じ讃岐守にしようとしたということは、梅の花は泰時ということになる。
2人の公卿にも違いがある。父頼家の死の真相を教えるのは、『鎌倉殿』では平六だが、『草燃える』では柴俊夫演じる平六の弟、平九郎である。両作品ともそれを知らせるのは同じ三浦の人間であるのは物語上当然なのだが、弟の平九郎は兄のように作為的ではないので、父の敵は北条だと教えるが、公卿はその元凶は実朝だと解釈してしまう。とは言ってもそれほどの相違はなく、最大の相違点は政子との極秘の面会の時期である。『草燃える』は実朝暗殺実施前だが、『鎌倉殿』は実施後である。
「おばあさま、明日何が起こっても私を信頼して頂きたい。おばあさまのことだけは私いつも大事に考えています。決して悪いようには致しません。そのことだけは言いたかったんです。」
と『草燃える』の公卿はそう残し後にするが、これはどう考えても悪手である。『鎌倉殿』の寛一郎演じる公卿はその悪手を打たないが、その割には叔父の首と一緒に祖母のもとへ行くことに躊躇はない。既に鎌倉殿の地位への夢などとうの昔に捨ててきているだけでなく、陽の当たる場所で「我が名は公卿」と名乗る自由だけを求めていることを吐露している。
『草燃える』の公卿は短慮ではあるが、まともな一面もある。泰時が公卿を見つけ、尼御台が待っているのだ、三浦館に行くなと説得する。公卿も一瞬耳を貸そうとするのだが思い直してしまう。
「こんなものを持っておばあさまのもとへ行けるものか」と三浦館へ向かってしまうのだ。
それぞれの相違点を挙げたが、最後は公卿の口封じと北条と三浦の手打ちのことを解説したい。
正直言えば、『鎌倉殿』の公卿の口封じの殺し方は、あれでもかなりソフトに思えたし史実のように雪の中で惨殺される悲惨さよりは、平六にマシな殺し方をされている。本来は平六が自分の手で下すことはないし、三浦館に入れてあげるのもにわかには信じがたいなと思ってしまった。
『草燃える』では公卿が小四郎を討ち漏らしたことで平六の計画はすっかり狂ってしまい三浦館では反省会が実施されていた。
第50話「三浦義村の策謀」のシーンである。
平九郎と駒若は徹底抗戦を主張するが、平六は真逆な考えだ。
兵は出さない。
「今、北条と戦うのは得策ではない。長尾定景を呼ぶ。」
「そなたたちは黙っていろ。俺のすることに口出しするな。」
平九郎にじゃあどうやって北条に申し開きするのかと問われると
「すぐに手勢をあげて御曹司を探させろ。見つけ次第首を切れ。
もし御曹司がやってきても館の中には入れるな。門を硬く閉じ外で討ち取れ。それ以外ない。御曹司の首を北条に持っていけば何もなかったことになるだろう。今夜のことはなかったことにな。どうしても行くというなら俺を斬ってから行け。方法はない。小四郎を打ち損じた御曹司が悪いのだ。」
源氏の正嫡を殺すのかと平九郎が再度訴えても
「ああ殺す。首を取る。最後の源氏の正嫡を三浦が葬る。」
門を叩くと、武者が出てきて、彼を取り囲んだ。そして雪明りの中でいきなり斬りつけられた。
「駒若!駒若!」駒若の名を叫び続ける公卿の断末魔。
泣きながら詫び続ける駒若と耳をふさぐ平九郎。平九郎も自分の名を叫び続けていた自分の主、頼家(郷ひろみ)の声が重なっていた。だが平六は泣くこともなく詫びることもなく整然と構えている。
筆者ももしこの凄惨な誅殺を見る機会がなかったら、史実よりは、はるかに優しい山本版平六の公卿の口封じも冷酷に見えたと思う。藤岡版の平六に公卿への敬意は1ミリもないが、山本版の平六には公卿への敬意は残っている、ように見える。おそらく三谷が史実のように公卿を殺していれば、平六にも1ミリくらいはある好感度を失うことを恐れマシな殺し方を考えたのだろう。
「私に死んでほしかったのではないのか!」この台詞は自分を殺そうと公卿を焚き付けた平六を小四郎が問い詰める場面だが、『草燃える』での手打ちとはえらい違いである。
首桶持参の場面も見かけだけは同じだが、今のは首桶シーンの舞台裏のつもりだったのだろうが、『草燃える』に舞台裏があったとしてもあれはないだろう。北条と三浦は徹底的に乾いているからだ。
なぜこのようなことになったのか、政子は意を決して小四郎に会いに行くが
既に平六が公卿の首を持参していたのだ。お互いの腹の底を見透かしあっていながら、知らぬふりで顔を合わせ手打ちにしたのだ。
政子は一瞬頭が真っ白になった。
「とんだことでびっくりしたが、まず公卿の首をお納め願いたい。」
「全く、このようなことが起こるとは...」
「尼御台、これで一件落着でございます。いつも大局に立ってものを考えねば、のう小四郎よ。」
「そうだとも。いい手打ちが出来たというものだ。」
小四郎と平六は最初から最後まで同盟者として完走している。
しかしまさか自分で”手打ち”という言葉を使うとは思わなかった。
「気にするな。お互い政治家だ。」ということなのだろう。
不可解な人物ー。
彼はいま徐々にその性格を明確にしつつある。権謀ーといっても悪ければ緻密な計画性に富み、冷静かつ大胆、およそ乱世の雄たる資格をあますことなく備えたこの男は、武力に訴えることなく、終始北条一族を振り回し続けた。政治家的資質とスケールにおいて僅かに上回ると思われる北条義時すら足を掬われかけたこともしばしばだった。
といって、私は彼を非難しようというのではない。いや、それどころか義時と並んで日本の産んだ政治的人間の最高傑作の一つだと思っている。草深い原野に育った東国武士団が、このような人間を産んだことに、ある感慨すらいだかずにはいられないくらいだ。このきわめて興味ある人間の名は三浦義村。その華々しい政治的デビューは、梶原景時失脚事件で見たとおりである。
以上が『草燃える』の原作の一つである『つわものの賦』から抜粋したものである。本作の登場人物、平六はまごうことなき悪人であり策略家、謀略家といったイメージがふくらむほどより魅力的に感じる。がそれはあたりまえといえばあたりまえで原作者が上記のようなべた褒めするくらいなら読者や視聴者も当然つられるので人気キャラクターになっていくのは自然なことだ。
平六は架空の人物ではないし本作で加工されてもいないが作者がひいきしていることは間違いない。
元々平六は得な役である。実朝暗殺の黒幕(厳密に言えば『鎌倉殿』での黒幕とは言い難いが噛んでいることは間違いない)であり、義時を討ち漏らした公卿も始末するが、小四郎は実朝を見殺しにし、公卿のことも自らの手を下すこともなく、しかも三浦に命じることもなく公卿を葬らせる。平六は実朝を殺し、小四郎は見殺しにする。小栗版の小四郎は、御所を京に移すことを考えている実朝に失望し、公卿に命を狙われていることを知っても見殺しにしようとするが、松平版の小四郎は元々実朝にさほど期待を寄せていないし頼家と違って無害なので消そうとも考えていない。しかし実朝暗殺を知った以上、これに乗じて三浦と公卿を一網打尽にしようと考え、そのためには実朝や仲章が犠牲になってもやむを得ないとする。その結果太刀持ちを仲章に譲り例の肩ポンシーンに至るのだ。
どう考えても平六の方が罪が重いはずなのだが、視る側は小四郎の方が罪が重いと断じてしまうのだ。それは多分実行犯にも同等の殺意があってもよりも殺人教唆の方が罪が重いと人は感じるからである。
まとめになるが、平六は実朝襲撃計画を泰時に感づかれてたと察し公卿に中止を言い渡し、小四郎は実朝を暗殺した(する)公卿を討つつもりであるが、公卿はターゲットを実朝から小四郎に変えている。当初は小四郎もターゲットに入れているが途中で撤回しているので結果的には味方になっている。小四郎も平六も実朝に死んでもらおうと思っている。してみると最後までどっちに転ぶかは誰も分からないのだろう。トメ枠という称号があることで、本作のメインディッシュは承久の乱はではなく、小四郎の死だ。平六がそこに絡む1人であることはもう言うまでもないだろう。
補足
仲章も今回で退場である。策略家という設定なのに何故小四郎に本音を漏らすような愚かなことをするのか?刺客を炙り出すためというのも分かるが、あえて自らの野望までペラペラ漏らすメリットを感じないし、殺されても仕方ない人物に作っているとしか思えないのだ。生田斗真の孤軍奮闘は買うが肝心の三谷の創作には問題があるのではないか?
出家して約2年経っているはずなのに広元(栗原英雄)はまだ俗世のままでいるようだ。いつ出家するのだろうか?逆に『草燃える』の岸田森演じる広元では、前年に早々と出家している。どっちなんだろう?無論広元は完走予定なので退場はしない。
なんだ…『草燃える』の十郎(滝田栄)は善児(梶原善)でもトウ(山本千尋)でもなかった。運慶(相島一之)だったのか?
確かに運慶の言ってることは『火の鳥鳳凰編』の我王に近いし、運慶と小四郎は我王と茜丸のようにも見える。運慶も我王も十郎も仏師である。でも運慶が成功者だということにちょっと引っかかる。自由人ではあるけれど…
そのトウも退場なら寂しい限りだ。モデルは『草燃える』の十郎なのか、それとも養父である十郎の眼を潰した小四郎に復讐を燃やす小夜菊(松坂慶子)なのか不明だった。小四郎が滅ぶところを見ないと気が済まない小夜菊と対照的に、殺戮を重ねたトウは政子の命を救うことになるのだ。トウのモデルはやはり小夜菊だったのだろうか?