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「の」と「と」の違い

 毎回副題のダブルミーニングを考えさせられているようで、義務付けられているのか、正直ストレスになっている。
 27話の副題「鎌倉殿と13人」は本作品の主題『鎌倉殿の13人』の「の」ではなく、「と」になっていて、当然のことながら、副題の意味は「頼家(金子大地)」と「13人」なのだが、じゃあこれまでの主題の「の」がつく「鎌倉殿」は誰なんだと皆が考え直すように誘導して付けた副題なんだろう。「の」の人は13人の所有者だが、「と」は13人の所有者どころではなくvsという対立者という意味も含んでいる。
 まず「の」の人が頼朝のわけがない。『十三人の合議制』が設立されたのは頼朝の死後である。であるからにして「の」の人は、選択肢など入る余地もなく、政子だと思い当たる。つまり今まであまり明かしていなかった主題の意図は『(尼将軍である)鎌倉殿の13人』だと宣言したようなものだ。折り返し地点にふさわしい発表である。
 小四郎(小栗旬)に向けた「13人目はあなたです」がその決め台詞そのものではないか!鎮座ましましているオープニングの政子の銅像からしてもその偉大さを物語っている。本作品でもわかるように、政子(小池栄子)は、比企には感情剥き出しになる『草燃える』の政子(岩下志麻)に比べると、頼家の妻妾には概ね理性的に接している。
 『草燃える』で最年少で37歳の小四郎(松平健)を末席に入れたのは政子で、その前に政子を代表にしたのは小四郎が仕組んだことである。この点は両作品とも変わらない。

 主題の中心である『十三人の合議制』の話を続けよう。
 三谷幸喜が自著『ありふれた生活』で記されているように、「頼家が、あまりにも愚鈍で乱暴者だったので、それに対抗して御家人たちが結束したのが、『十三人の合議制』。これまではそう言われてきた。」と『吾妻鏡』ではそうなっているし『草燃える』でもそれは踏襲されている。家来の愛妾を奪ったことや、自ら地図上に真ん中に線を引いて放言したことも同様だが、あくまで逸話であり、合議制に関しても、実績らしい実績もなく、13人が話し合ったような形跡もないばかりか、頼家が決裁したと思われる文章も残っている。裁決権は剥奪されていないのだ。

 三谷は『吾妻鏡』による『十三人の合議制』を覆し、経験不足でやる気が空回りする新将軍を小四郎たちが支え、それが思わぬ悲喜劇を生む物語を紡ぎだしている。
 文官4人に梶原景時(中村獅童)を加えて訴訟を請け負ってもらうが、あくまでそれは道筋を示すだけで決定権は頼家のままでいく。それがいつのまにか北条と比企の派閥争いの泥沼合戦に発展し、それぞれの陣営を増やそうと、5人が13人に膨れ上がる。その点は『吾妻鏡』の矛盾点を上手く突いているようだ。

 時政(坂東彌十郎)とりく(宮沢りえ)は、畠山重忠(中川大志)を誘おうとするが、「比企に釘を刺された」と断られる。重忠は「あなたにはガッカリだわ」とりくに恨み節をぶつけられるが、わかりやすい重忠フラグだ。
 平六(山本耕史)は、時政に誘われた父三浦義澄(佐藤B作)に頼られるが、「三浦から2人は角が立ちましょう」と和田義盛(横田栄司)に振る。正直な重忠より悪人の平六の方が断り方が上手い。三谷が合議制の設立がいい加減と看破したのは、重忠や平六が入っていないからであろう。合議に関係があるのは文官と景時だけで、他は全て寄せ集め、北条か比企の親族か、容易に懐柔出来そうな相手ばかり加入してもらっている。義澄は素直に息子に一緒に入ってもらいたがっていたが、時政は自分と意見が合わない息子の小四郎を誘わないのだ。本作品での比企(佐藤二朗)は登場時から時政と勢力争いを繰り広げることに余念がないが、『草燃える』の比企(佐藤慶)は争いにあまり積極的ではなかった。『十三人の合議制』が設立されたときに比企の館に戻ると妻につるしあげられていた。なぜ御所(頼家)を守らなかったのかと。しかし能員は自分も参加者になることが精一杯だったと答えるしかなかった。えらい違いだ。

補足

 後鳥羽降臨。早くも頼朝の死因を推理する英邁さ、確かに頼朝は落馬直前に水を所望していた。
経験者でもあるため蹴鞠を嗜むシーンは欠かせない。
 蹴鞠は今川氏真の代名詞だが、5年前にはその氏真(『おんな城主直虎』)を尾上松也が演じていたのだ。
 だが、『草燃える』では頼家(郷ひろみ)と近習たちは蹴鞠をするが、後鳥羽が蹴鞠をするシーンはなく、その代わりに闘鶏を楽しんでいた。頼家は、蹴鞠に飽きると近習たちの首に縄をかけて背中合わせで相撲を取らせ、勝利した者に褒美を取らせた。鎌倉では闘鶏も土佐犬もないので、人間でということか。『吾妻鏡』では蹴鞠を否定的に扱っていたし、『草燃える』は70年代なので、日本ではまだサッカーブームには至っていなかった。今やサッカーは『吾妻鏡』など恐れるに足らずということもあり本作品でも蹴鞠は肯定的に扱われているようだ。

 本話で五郎(瀬戸康史)がついに蹴鞠で覚醒したのか? 森田順平が演じていた『草燃える』の印象ではどこか器用貧乏だったのだが、本作品ではなぜなのだか、餅も上手く握れない不器用な青年になっていた。だが『吾妻鏡』がある以上、五郎は蹴鞠が下手には出来ない。あえて最初からは器用には作らずに蹴鞠を機会に変貌する設定だったのだろうか?蹴鞠は平安時代から公家の遊戯ということになっているが、ドラマでの集団競技の蹴鞠を見かけるのは鎌倉時代だけなのである。頼家と近習たちで。

 結城朝光(高橋侃)が琵琶の名手だということは史実だが、実衣(宮澤エマ)が琵琶の教えを乞うているのは創作である。

 文覚(市川猿之助)は通親(関智一)の襲撃の企てに連座したことで捕らえられ、あたかも斬首のように描かれているが、佐渡への配流され通親の死後に許され、さらに翌年、後鳥羽に謀叛の疑いをかけられ、対馬国へ流罪となる途中、鎮西で客死している。(神護寺のホームページ)

「爺さんはやめておきましょう」も平六の名台詞の一つだが、「もうすぐ死にます」と決め付けられた千葉常胤(岡本信人)はかなり長寿で、ネタバレだが自分の父義澄が先に死ぬ。常胤も退場ということなのだろうが、岡本信人の起用は『草燃える』の定家役だったからそのオマージュだということはわかる。でも藤原定家役に信人である必要性はあったが、常胤に信人である必要性がわからない。できれば御家人でない役を用意してもらいたかった。


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