剣道のススメという裏テーマ
剣道を正しく真剣に学び心身を練磨し旺盛なる気力を養い剣道の特性を通じて礼節を尊び信義を重んじ誠を尽くして常に自己の修養に努め以て国家社会を愛して広く人類の平和繁栄に寄与せんとするものである
というのが剣道修練の心構えです。大したものです。旺盛なる気力を養うとはどういう意味でしょうか。僕が考えたわけではないです。こういう文章のおかげで教訓探しに苦労しませんが、自分と剣道との間合いを見誤ります。その可能性。
私が小学生の時、剣道場で外崎先生は「素振りの時は天井に突き刺す。空気との摩擦で火が出るほど早く振り下ろす。」と言っていましたが、昔の僕はその意味のまま素振りができていました。(だから右手に力が入っていたのですが。)今できないとしたら、それは頭が硬いからです。僕が思う「頭が柔らかい」というのは、極端な想像ができる脳の状態です。脳の話なら、心の準備、もしくは呼吸の繊細さ、の話だけが重要なんです。また、ある数学者が「社会は、難しいことを面白い、ということがわからなくなってきている」と言いました。弱い奴の頭を叩いてもつまらない。勇気を出して強い相手の間合いに踏み込み、完全な一太刀を浴びせたい。難しいです。今はできません。ところであなたは水を切るイメージができますか。地面数センチのたんぽぽの花を断つイメージができますか。イメージを極端に再現してください。
僕が剣道を好きでい続ける訳は、剣道をある程度理解しているが、そのある程度を自分の剣を通じて体現できずにいるからです、たぶん。(もちろん、それを支えてくれる保護者あってのことです、この前も新しい面を買ってもらいました。)言葉と実際の間で自分は修行しているという感覚です。次から次に新しい、古い問題が発生します。現在は、素振りや打ち込みの連動の難しさを実感してますが。相手がいてそこに打ち込む難しさも、今後、また楽しくなってくると思います。今の稽古はスピードと技だけでやりくりしてますから、これからそうなるのかな、ぼくは。
外崎先生は僕を川原まで連れて行って竹刀で一緒にススキやスズメノカタビラなどを切りました。薙ぎ倒せても、切れ味よく切れぬのでした。なぜかと聞かれたて、「叩いてるのと同じだな」と答えて、先生は「うん」と言いました。でも実は、自分の叩く力に興奮してました。本気で振り下ろすのが初めてだからです。もっと切りたくてたくさん振ってると、刃筋に鋭さがなくなりました。でも先生はポキポキ切るのです。
一体何がきっかけか、その原点は見つけられません、複数あるから。いつでも、ふとした時に、原点を見つけます。それが剣道?人間?の特性なのか?とにかくそういうものなのかな。思うに、私を含めた多くが勝敗に執着してる。相手を打ち負かすことは剣の道の通過点に過ぎない。仮に、通過点でなければ通ることに「執着」する必要は微塵もないです。重要なのは、剣道と自分との間の不和に「集中」することです。必ず勝てるロボットになって欲しいのではなく、本当に難しいことから逃げたらダメです。難しいことは楽しいからです。小学生から学ぶこともあり、八段の先生から学ぶこともあります。「執着」するのではなく、「着眼」を広げて楽しんでください。人類の平和繁栄を背負うのはその後で良いのです。世の中の強い言葉に惑わされずに、着眼を広げ、自分の呼吸で集中すべきなのかな、と思うのです。
最後に、おこがましく剣道の話をしたのは、多くが自身を透明化しすぎているためです。他人の言葉も数打ちゃ当たるという考えで、色々喋ってるだけです。また、僕の小さい背中では何も語ることができないので長い文章にしてよこしたんです。でも僕の背中の一部は見て欲しいし、また、さまざまを疑って欲しいのです。僕には声をかけて欲しいのです、何やら言いたげなあなた。