【言葉通り1丁目1番地】 市場がない街は寂しくて悲しい

久し振りにタイトルをつけて書き記すことにしたのは、自分自身にとって意外なほど困っている問題に気づいたから。

市場は街に欠かせない存在だった。駅を中心とした街の発展の象徴的な存在だった。生まれた時から当たり前にある場所でもあった。
ここでいう市場とは商店街を指す。いわゆる生産品の卸市場ではなく、日常生活に必要なありとあらゆる商品を消費者に提供する個人商店の集合体である。

いつも買い物客で賑わい店先では威勢のいい声が飛び交う活気に満ち溢れた通りが、いつしか大型量販店が出現したあたりから存亡の危機に見舞われ始めていたことに当初は誰も気づかなかった。店も客も駅前にスーパーマーケットができようが商店街は変わらないものだと信じて疑わなかった。今のシャッター通りなど、否、マンションや商業ビルに建て替えられて面影すら跡形もなくなってしまった未来の姿など想像すら出来なかった。市場の絶滅は、当時の人々の心の隙に静かに忍び寄っていたのだろう。気づけば市場のない街が当たり前のようになった。

市場がない街には、昼間の活気などない。静かな通りは車の往来こそあれど、会話の声が聞こえない。住宅街となった街では朝晩の人の群れは見られるものの誰も無口で朝は殺気立ち、夜は疲弊した顔が続く。この光景は怖いの一言だ。大きな道路が通された地域なら、道を削るようなタイヤの音とクラクションと悲鳴とも喚き散らす声とも区別のつかないブレーキ音が丑三つ時でさえ響き渡る。そういえばまだ明けぬ早朝の商店街には新聞配達やら通いの商店主の自転車のベルしか聞こえなかったような気がする。たまに商品搬入の軽トラがゆっくり走行するエンジン音がするくらいだった。

小学校2年生の冬休みまで住んでいた川西市には、川西能勢口駅という小さなターミナル駅があり、駅そばの踏切を渡ると川西中央商店街があった。今も存続しているようだが、その通りの中程から右に折れる路地があって、その先にも古い軒が続く小規模の商店街があった。確か新町市場と呼ばれていた。子供の頃は毎日のように母親に連れられ、荷物持ちとして買い物に付き合わされたのだが、必ず古い新町市場にも足を運んでいた。貧乏暮らしの食卓に欠かせない食材、豆腐と薄揚げを買うのが目的である。味噌汁の具は主にこの二品にワカメを加えただけだった。理由は私がネギ類が大の苦手だったからである。たまに大根やタマネギやじゃがいもが入ると大のご馳走だ。でもニンジンは甘くてあまり好きではなかった。

こうした野菜類は中央商店街の八百屋さんで買っていた。同じ八百屋でも買う店は何となくいつも決まっていた。そこは卵も扱っていた店だったような気がする。
私は卵を包むお店のおばちゃんの手元を見つめるのが好きだった。広げた新聞紙に手際よく卵を上向きに5個並べたら一度折り返す。そしてその新聞紙一枚を挟んでもう一列しっかりと密着させると丁寧に素早く手前から先の方へ10個の卵をひっくり返しながら包み込む。この作業を2回程度繰り返したら左右の端を折り込んでまたひっくり返す。最後は輪ゴムで巻いて完了。混んでいる時は輪ゴムを巻く手間を省くこともあった気がする。しかし包装が解けたり、新聞紙が破れたりすることは一度もなかった。その作業をいつかやってみたい。そんな願望を叶えたのは大人になってからだった。意外にも簡単に出来たのには拍子抜けしたが、夢は叶った。

話を戻そう。商店街がない街に暮らして十余年、とにかく不便で仕方ない。前まで短期間ではあるが武蔵小山駅の近くに住んでいたことがあり、ニュースやバラエティ番組のロケにも度々登場する言わずと知れた武蔵小山商店街がある。地元の人たち曰く昔に比べると店の構成が変わってしまいどこにでもあるチェーンやパチンコ屋が席巻して、少しも楽しくないしとても不便になったと不評を買っているが、それでも活気はあった。再開発でツインのタワマンが建ち、昔ながらの風情が薄れた感は否めないが、今でも存続しているだけマシである。今は食器や鍋、靴や服を買うにも車がないと行けない郊外店しかない地方都市住まい。駅前には車専用のロータリーとなっていて、駅近くに立ち並ぶビルの1階には喫茶店どころかコンビニすらない。歩いて5分程度のところに食品専門の地元スーパーとドラッグストア、100円ショップはある。何もないより便利で充実した環境なのは有難いが、なぜか心は満たされない。

歳をとったということでしょうか。😅


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