家計簿と企業会計
開け放しの窓からかすかに電車の音が聞こえてくる。
雑多なものであふれた幅広のデスク。
いつになくまじめな表情のパパが、パソコンの画面を見つめている。
ドアがゆっくりと開いて、息子の顔がひょっこりのぞく。
息子:パパ、何してるの?
パパ:お仕事だよ。
息子:毎日大変だねえ。
パパ:お仕事だからね。
息子:肩凝ってない?
パパ:肩? いや、凝ってないよ。
息子:そっか。
パパ:……お父さんの顔に何かついてるか?
息子:ううん。ただ、イケメンだなあと思って。
パパ:お前の口からそんな言葉、初めて聞いたぞ。
息子:最近気づいたんだよね。よく見るとパパの顔って意外と整ってるよな、って。
パパ:そうか。ありがとうよ。
息子:コンビニ行くけど、何か欲しいものある?
パパ:あー、今は別にいいかな。
息子:そっか。
パパ:うん。
息子:…………
パパ:…………
息子:(さて、どのタイミングで切り出したものか)
パパ:(何をたくらんでるんだ?)
息子:なんか、数字がいっぱいだね。
パパ:今な、家計簿をつけてるんだ。
息子:家計簿?
パパ:家計簿は知ってるだろ?
息子:知ってるよ。のび太のお母さんが、今月も赤字だわ……って言ってるあれでしょ。
パパ:そう、それだ。ただし、父さんがいまつけてるのは企業会計、つまり会社の家計簿だ。
息子:会社にも家計簿があるんだ。
パパ:もちろん。お金のやりくりをしなきゃいけないのは、お家も会社も同じだからな。
息子:ふうーん。
パパ:家計簿と企業会計では何が違うんだろう? て顔をしているな。
息子:どきっ。ばれた?
パパ:しょうがないなあ。好奇心旺盛な息子のために、今日はその話をしよう!
息子:しめしめ(やったあ!)。
パパ:ん、何か言ったか?
息子:何も?
パパ:そうか。……家計簿と企業会計の違いについてだが、やっていること自体は両者でそれほど変わらない。一定の期間に、お金がどれだけ入り、出ていったか。どんなルートで。どんな目的で。そういうことを記録する。
息子:なんのためにそれをやるの?
パパ:一言で言えば、収入と支出の把握。自分がどれだけお金を稼いで、どれだけ使っているかを知るためだ。
息子:それって、めんどくさい?
パパ:めっっっっちゃめんどくさいぞ。
息子:それって、絶対にやらなきゃダメなの?
パパ:いい質問だ。実は、家計簿をつけることは、家計を維持するために絶対必要ではない。サラリーマンの給料は大きく変動するものじゃないし、支出も、よほどぜいたくしなければおおかた決まっているからな。実際、家計簿を毎月しっかりつけている家庭はごく少数だろう。
息子:じゃあ、うちもつけてないんだ。
パパ:いや、ママがつけてる。
息子:あれ? なんで?
パパ:それは……ママが几帳面な人だからな(パパの収入が不安定だからとは言えない……)。
息子:なるほど(パパの金遣いが荒いからだな……)。
パパ:とにかく、家計簿は絶対やらなきゃいけないものじゃない。けどその一方で、企業会計、これは、会社が生き残るためには絶対にやらなきゃいけないことだ。
息子:そうなんだ。
パパ:もしも企業会計をつけていない会社があるとすれば、その会社は倒産の危機といえる。
息子:どうして?
パパ:一つには、会社の経営は、家計よりもお金の流れがずっと複雑になるからだ。
息子:複雑。
パパ:例えば、お前はまだ持ってないが、大人の必須アイテムに「クレジットカード」ってものがある。
息子:知ってるよ。「お金がなくても買い物ができる便利なやつ」ってお姉ちゃんが言ってた。
パパ:その説明はだいぶ怪しいな。てか、お姉ちゃんって誰だ?
息子:近所のお姉ちゃん。こないだ、公園で一緒に遊んだんだ。
パパ:……とにかく、ここで言いたいのは、お金のやり取りは必ずしもその場で行われるわけではなく、時間差を伴うことも多いってことだ。会社経営の場合は特にそうで、使った瞬間に出ていくとは限らないし、稼いだ瞬間に入ってくるとは限らない。だから会社は、現時点で手元に現金がいくらあるのかは常に把握しておかないと、いますぐ支払わなければいけない請求が突然やってきたときに困ることになる。
息子:払えないとどうなるの?
パパ:最悪の場合、倒産だな。利益は出てるのに、経費の支払いが出来ずに倒産してしまうことを「くろじとうさん」という。
息子:昨日ママが買ってきたの美味しかったよね。黄な粉がたっぷりで……
パパ:それは「くろみつだんご」な。
息子:おお、さすがパパ!
パパ:仕入から回収までの期間が長くなるほど、その期間をつなぐための資金が必要になる。潤沢な現金があれば別だが。
息子:25日に給料が出ます。でもカードの支払いは15日までです。みたいな?
パパ:そう。まさにそれだよ。カード破産は、よっぽど計画性が欠如した人間でなければ起こることはないが、会社の場合、動くお金の規模が大きいから、黒字倒産は誰にでも起きうる。
息子:「リボバライってのすれば、5万のバッグ買っても毎月3000円で済むんだよー」って言ってた。
パパ:息子よ、今すぐそのお姉ちゃんここに呼んでこれるか?
息子:どうかなあ。毎日夕方になると、仕事までの暇つぶしって言ってブランコで遊んでるんだよね。もう行っちゃったかも。
パパ:…………とりあえず話を先に進めよう。目の前の現金が、十分なスパンで枯渇する状況にないか常に把握する、これが企業会計の一つの大きな目的ということだ。しかし、もう一つの大きな目的がある。
息子:ほう!(話長いな……)
パパ:それは、会社を成長させていくためだ。
息子:成長。
パパ:事業を拡大し、従業員を増やしたりして、会社を大きくするってことだ。
息子:生き残ることと、成長することは違うんだね。
パパ:その通り。今の経営を継続することと、そこに成長を求めることでは、必要とされる考え方が大きく異なる。企業会計においては、「成長」を視野に入れると、収入・支出の把握だけでなく、その「分析」と「公開」が重要になる。
息子:分析と公開?
パパ:会社がどれだけ儲けたか、これからどれだけ儲けることができるか、何にいくら使ったか、どこにお金を使いすぎているか、どこに使えば効果的か、どこまで自由に使えるのかなど、会社の事業を拡大するうえで大切な情報を知る。そしてその情報を、必要に応じて公開する。
息子:公開って、誰に?
パパ:株主や銀行など、要はお金を貸してくれる人だな。事業を拡大するには資金がいる。資金を集めるにはお金を借りなければいけない。そしてお金を借りるには信用がいる。だからしっかり計算して、計画立てたものを見てもらい、投資するための判断材料にしてもらうんだ。
息子:なるほどね。よくわかったよ。ところでパパ、うちの家計っていまどんな感じ?
パパ:どうした急に。
息子:余裕ある?
パパ:まあ、そこそこ。
息子:息子に与えるお小遣いを5割増しにできるくらいには?
パパ:……それが狙いだったのか。
息子:えへへ……
パパ:そんなことだろうと思ったよ……息子よ、お前がお小遣いを上げてほしい理由はなんだ?
息子:欲しいものがあるんだよ。けっこうするんだけど。
パパ:その欲しいものを買うために、まとまったお金が必要になるわけだ。
息子:最近、成績も上がったし、いいでしょ?
パパ:うーん。値上げを要求するその前に、お小遣い帳をつけてみてはどうだろうか。
息子:お小遣い帳?
パパ:お小遣い帳で、自分が何にお金を使っているかを洗い出し、減らせる支出がないか考えてみよう。支出が減れば、収入が増えずとも使えるお金が増えるだろ?
息子:確かにね。
パパ:そのうえで、どうしても収入が足りないことが分かったら、そのとき改めて交渉に来ればいい。その内容に納得すれば、交渉に応じることもあるだろう。
息子:「分析」と「公開」だね。
パパ:そういうことだ。
息子:めんどくさいけど、仕方ない。やってみるよ。
パパ:あとな、その交渉は、父さんではなく母さんにしなさい。
息子:どうして?
パパ:この家の財政は、母さんがすべて握っているからだ。
息子:パパ……。
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文:エマダ
挿絵:わたせあつみ