RPGみたいな指令をしてくるおじいさんとドニゴールの旅 | アイルランドと私 #3
ゼルダの伝説の世界に憧れてアイルランドに住み始めてしまった人の、旅の記録です。植物の調査をするお仕事をしています。
6月末、ドニゴールの旅
「Four Mastersで地図を買え」
私は急いでいた。ドニゴール南西部、Lagheyのガソリンスタンドに車を停めて、電話をする。
「集合の10時には間に合いそうもありません。少なくとも1時間は遅れると思います。お先に始めていてください」
6月末、その日は、ドニゴール北西部、Maghery Beachという海岸で10時から植物の記録会に参加する予定だった。土日、2日がかりの旅である。しかし、ダブリンから車を走らせ、すでに4時間が経過していたものの、9時半の時点で集合場所までまだ1時間半はかかる場所にいた。そこで、主催者のR氏に謝罪と共に遅刻する旨を連絡したのだった。
「Four Mastersで地図を買え」
「えっ?」
まるで、RPGのダンジョン攻略前に村長に言われるような台詞が聞こえた。
R氏はとても親切な人で、私がちゃんと集合場所に辿り着けるよう、地図を買うことを勧めてくれただけなのだが、何だか言い方や渋い声も相まって、私はあっという間に、訳知りのおじいさんから指令を受けた主人公の気分になっていた。
「君がいるLagheyから北に行くと、ドニゴールの大きな街がある。そこにあるFour Mastersという店で、今日の調査地が入っている1番の地図を買うんだ。それから国道56号線を伝ってGlenties、次いで海岸沿いに北東に走り、後は国道を北へ道なりに進めばMagheryに辿り着くよ。着いたら、電話をくれ」
R氏は丁寧に道順を教えてくれて、それから電話を切った。渡航してから9ヶ月、英語での電話は未だ慣れなかったし、遅刻はしているし、会うのは知らない人達だし、集合時間に迫る時計を見ながら運転していた時は、もうダメだあと思っていたが、電話越しにも分かるR氏の気さくで優しい人柄に心底ホッとしたのを覚えている。
すぐに運転を再開して、勇んでFour Mastersへ。秘密の合言葉を言って地下に入ると、そこは武器や薬が売っている石造りの店…ということではなく、実際は小綺麗な街の文房具屋さんといった風貌であった。しかし、私はすっかり冒険の地図を手に入れた気持ちで、ウキウキと店を後にしたのだった。
The Signal Tower
11時半、ようやく目的の海岸に到着した。R氏に改めて電話すると、今は砂浜の植物を記録し終えて、崖上の塔の下で海岸草原を調査しているとのことだった。到着すると、十数人、史跡の塔(The Signal Tower)には目もくれず、ノート片手に下を向きながら彷徨っている。あの人達だろうか…なんて疑問は抱かなかった。そんな怪しい歩き方をしていたら、まず植物屋か虫屋にちがいないのだ。
ホリデーハウスを憂う
Magheryにて海岸草原の調査を終えると、次は少し内陸の、湖沼群に行くということだった。各自の車は広い駐車場に泊めておき、乗り合いで現地に向かう。R氏の車には、私と、ダブリンの大学院で植物を学ぶS氏、イギリスから植物を学びに来た地質学者の女性M氏が乗っていた。
「花崗岩を勉強するなら、ドニゴールがベストなんです」
M氏は道中、車窓から見えた花崗岩の露岩を指差して言う。アイルランドの地質は、サンゴ礁由来の石灰岩と、その上に堆積した砂岩泥岩が大半を占める。一方で、アイルランドに陸上の活火山はないが、海底火山が多いため、そのマグマ由来の火成岩が、ベルファスト、ドニゴール、メイヨー、ゴールウェイ、ウィックローなど、海沿いの地域に分布している。件のドニゴールの花崗岩も、その一つだ。熱や圧力で変成していない、綺麗な花崗岩が露出していることが、多くの地学者がドニゴールを訪れる理由になっているそうだ。
それから3人は、行く道行く道で見かける無人の家に眉をひそめていた。どうしたのか聞くと、それらはドニゴール州外や国外の人達に買われ、休日の別荘、ホリデーハウスとして使われている家だという。アイルランドは基本、引っ越しの際は家を新築せず古い家をリノベーションして再利用する。元々世帯数の少ない田舎町で、近隣の家がたまにしか利用されないホリデーハウスになってしまった地元民は、お隣さんとのお喋りを楽しむ機会を奪われる。彼らは良い生活には良い話し相手が必要であるという共通認識を以て、ホリデーハウスを憂いているのだ。
湖畔のホシクサ
かつて氷河が花崗岩を削って作り出した、うねりのある丘の中を、車一つ分のガタガタ道を通ってしばらく進む。R氏は少し脇道に車を寄せて、ある湖の前で停めた。ここが1日目最後の調査地らしい。目的は湖沼に生えるホシクサ(Eriocaulon aquaticum)の記録だ。ホシクサはアイルランドで準絶滅危惧種となっており、どこでも見られる種ではない。日本名通り、湖面を上から見ると、まるで夜空の星のように、ホシクサの鮮やかな白い花が点々としているのだ。
旅の代表二人であるR氏とJ氏は、出会ってもう30年の親友だと言う。彼らが湖畔を歩きながら、ホシクサの分布をもっとしっかり記録して報告しようと話していたのが聞こえた。そうやって共に30年、アイルランドの植物学を支えてきた偉大な友情である。
東京にピンを刺す
1日目の調査を終え、Dungloeのレストランで夕食をご一緒させてもらい、各々の宿や家に戻った。私は海岸線沿いに南に下り、Ardaraの入江に着いた。西の海に沈んでいく夕日に向かいながら牧草地の迫る農道をのろのろ車を走らせて、宿に辿り着く。白い壁と赤い窓枠がアクセントのB&B・The Lookoutが今回お世話になった宿だ。トイレとシャワーは共有だが、部屋は個室で、中に入るとベッドに緑のベロア生地の毛布が置いてある、洒落たところだった。
宿のオーナーは向かいの家に住んでおり、ドアが常に空いているので、困ったことがあればすぐに呼べるし、飛んで来てくれる。眺めが非常に素晴らしく、窓や裏庭から、日に照らされた空と、入江と、向う岸の山谷を望むことが出来た。
裏庭でプラプラしていると、オーナーがやってきて、入江の向こう岸を指さした。「あそこに、牡蠣を採るための船着き場があるんだよ。妻とよく買い付けに行くんだ。量が多くて安いからね」
アイルランド西部は牡蠣の名産地として有名で、夏には早食い大会が開かれることを、どこかで聞いたことがある。今回は向こう岸に行く時間はなかったが、次は是非とも買いに行ってみたい。
「ちょっと待ってくれ、大事なお願いを忘れていたよ」
夜が明けて、2日目の調査に出発。車に乗り込むところで、オーナーに呼び止められる。ついていくと、壁に沢山ピンの刺さった世界地図が貼ってあった。
「来てくれたお客さんの出身を、ピンで刺してもらっているんだ」
日本に目をやった。イギリスよりアイルランドを旅行先に選ぶ日本人は、少ないと思う。さらにその中の、この北西の果てドニゴールに来た人ははたして……
長年勤め先だった札幌と迷ったが、故郷の東京に刺しておいた。島根から来たこの先客に、いつか巡り会える日も、あったりするんだろうか。
ラン、ラン、ラン!
2日目は主に海岸沿いの草原、砂丘、砂浜の探索だ。とにかく、ランの仲間を沢山観察した。頭がパンクした。特にDactylorhizaという属で、ピンク系統の花をつける仲間は種の見分けが難しい。ただでさえややこしいのに、交雑種(2種の合いの子。両親の中間的な特徴を持つ)も頻繁に生まれてしまい、皆の頭をいつも悩ませる。
他には、砂丘で見たFragrant Orchid(Gymnadenia conopsea subsp. conopsea)。「嗅いでごらん」と言われて顔を近づけると、何とも良い芳香がした。ただ、背丈が20cmほどなので、香りを確認するために大人数人が一斉に地べたを這ってくんくんと鼻を鳴らしているのは、異様な光景だったかもしれない。
それから、海岸の崖上で見たFrog Orchid(Dactylorhiza viridis)というラン。名前の由来は、緑色の花が蛙の頭に似ているから。目立たない緑色の花が、発見率を下げているだけかもしれないが、準絶滅危惧種で、珍しい種だ。
冒険の地図
「君はドニゴールの地図を買ってしまったんだ。ということは、それを使うためにまたここに来ないといけないよ」
R氏の、粋で心優しい性格のにじみ出る台詞である。2日間の記録作業を終え、結局皆についていくので一杯一杯で、地図を広げる機会はなかなかなかった。しかしR氏のこの言葉を聞き、買って良かったと思った。まだまだ居場所を探して試行錯誤している私にとって、こんな風に、また来てねと言われるほど、嬉しいことはないのだ。
知らない人達と、知らない土地から、また会える人達と、見知った土地に変わった。冒険の地図は、もうかばんの中に入っている。また来るぞ、ドニゴール!