合気とはなんなのか?
恐らくそんなものを、インターネットに求めてもロクな答えは返ってこないだろう。もちろん私もあなたを満足させる答えを提示しないはずだ。答えを知りたい情熱はあなた自身の修行によって活かすべきだろう。
合気という単語は、武術の中で特に合気道において頻繁に使われる。しかし、剣道や剣術にも合気という単語は使われることもある。剣道や剣術においての合気の出所は分からないが、武道の歴史としては、やはり「合気之術」という書籍が合気という単語を広めたのではないだろうか。
合気之術という書籍には読心術的な技法と、気を発することで相手を制圧するとのことが書いてある。これは面白いことに、現代合気道的な要素ではなく、むしろ剣道的な要素の方が含まれる様に思われる。少なくとも、現代合気道では型稽古が多く、読心もしなければ気も発しないのではないだろうか。
剣道では、気剣体の一致により一本とされているが気迫についてルール上重要視されているというのはやはり剣道の理合では気という概念を必要とするということになる。また、試合を前提にしている以上、選手たちは常に相手の次の一手に全神経を注いでいるだろう。
そして、剣道の歴史における合気の由来こそ分からないものの高段者になるほど合気の重要性、気の重要性を語っていることが多いように思われることから合気の術というのはナチュラルに剣道の中に、特にそれをよく知る高段者の技術の内側に浸透していったような技術なのかもしれない。
では、合気道はどうなのか。
現代の合気道の多くは、合気というものに対して和合の観念、精神のように扱っているところが多く、平和な道を目指すのであればそれも良いところではある。
しかし、合気道の歴史を簡単に辿って見てみれば、
合気道の創始者は植芝盛平であり、植芝盛平はそれまでに大東流合気柔術を習っている。
そして、大東流合気柔術は武田惣角が創始者であり、合気を技術、技として使用するという武術である。そして、現代では大東流を教えている道場も数多く存在している。
ならば植芝盛平は少なからず合気という技術を知っているはずであると考えられるだろう。ならば合気道にも合気の技術が含まれている可能性はあるかもしれない。あるいは、大東流には残されているかもしれない。
では、現代の合気道家、あるいは大東流合気柔術の流派はどれほど合気を技術として使えているのだろうか?
恐らく現状、世界中の合気道、大東流を習う人口に対して、余りにも少ないのではないだろうか。これが私なりの合気という技術です、という師範はどれくらいいるのだろうか。それでいて、その精度はまた人によって大きくバラけるものになるのだろう。
では、合気を技術として習得するにはどうすれば良いのだろうか。
勿論、まずは合気を使う人間の弟子になることだろう。その人間が弟子にその人なりの合気を教える気があるならばだが、あるいは少なくとも技はかけてもらえるだろう。
そうして、なにより合気という技術を受けてみることが重要だろう。受けたこともない技術を再現するのは難しいはずだ。
合気を自得するには目の前に散らばる、大小さまざまなパズルのピースを、見る角度によって形や答えが変わるフレームにあてがって組み合わせる必要があるからだ。その答えを得るには地道にピースを吟味し、それをはめては喜び、外しては悩む、そんな道しか無いのだ。
だからこそ、武道は楽しいのだと思う。
私は合気についてもっと多くの合気道や大東流を学ぶ若者が悩む(楽しむ?)べきだと思っているくらいだ。
ここでは触れなかったことがかなり沢山あるが、それはそれとして、
私が死ぬまで、寿命がどれほどあるかすら分からないが、合気を突き詰めるだけ突き詰めるくらいのことはしようではないか、と思っているのである。