ぽふぽふ

スキゾイド的なものから

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スキゾイド的なものから

最近の記事

そこに愛はあるか。

愛でしかない、「好き」ではないのだ。 完全に愛に振り切っているしかないのだ。 無償の奉仕でしか表現することができない執着的、愛着的表現であり、真っ当な対立、すなわち真っ当な付き合い方(自立した個人としての)はしてあげないという反逆であり裏切りなのだ。相手を個人として認めないほど潰しきっているからこそ愛で良いのだ。もし、真っ当な人権として相手を捉えるならばそれは強固な壁であり私の付け入る隙などなく、私はただそれを壁として見るに過ぎなくなるのだ。だからこそ、その存在自体を懐柔し破

    • 無知か、純粋

      子供の純粋な感性とか、素朴な質問だとかそう言ったところが詩的に評価されることがある。 しかしながら、それは「詩的」な評価にとどまるべきであって、例えば大人が子供のような「純粋」な感性を取り戻そうという標語として囃し立てられるのはいささかズレていると感じる。 この場合の子供の純粋さとは、未知あるいは無知からくる類推による帰結であって、その「純粋」感性由来と捉えるべきではない。 例えば、日本人が風土も文化も全く分からない国にいけば幼子と同じ気分を味わえるだろうか。 物事の

      • フリーレンのスキゾイド的曲解

        今更フリーレンかよ、、、 でも今更だからこそ、!! 葬送のフリーレンをスキゾイド的に曲解してもいいだろうという趣旨である。 (今回スキゾイドがなんぞやという説明は無い。) さてパーソナリティ的に人間でいうのなら、この物語の主人公フリーレンは相当スキゾイド的素質を持っていると見られる。 ただ、フリーレンはむしろ物語の各所でそのスキゾイド性をかなり素直に表現しているように思える。 というのは、フリーレンは誰の前に居ても繕わないし、仮面も被らないで生きている。 これはむしろ、

        • 創作

          創作とは排泄的であるとよく言われるが、果たして私は創作物を排泄物だとか、産み出した子どもであるとか思わない。 それは単なる創作物であるし、そこになんらかの美があるなら美を感じさえするのだが。 これは、石化の魔法によるものかもしれないし、ただの創作感の違いかもしれない。 ただ分かるのは、創作するにはなんらかの圧力というか、アウトプットするだけのインプットのような圧力が必要だ。 そこには、ただなんらかを食べる、摂取するだけではダメで。その情報量だとか圧力に自分がちょうどよ

        そこに愛はあるか。

          どちらにも困難を抱える

          外部的である限り、偽りの自己であるし、それがもともとは内部的な動機であったとしてもエネルギーが外部へと向かう動作をする限りは偽りの自己にならざるを得ない。それをしないでいるということは、真にひきこもりの立場を取るしかない。 ある程度の折り合いをつけて、自らの存在を表現して生きているに過ぎない。 かといって、社会的なものは全て外部的であるのだから、社会的な世界に生きる限りは偽りであるという感覚を捨て去ることができない。 偽りの自己なんぞ使わずに生きたいと望むのであったとして

          どちらにも困難を抱える

          スキゾイドの石化は、対人に限らない??

          スキゾイドならよく、周りの人間を石化しつつ過ごしていると思う。 それは勿論、感情的なやりとりや表現によって呑み込まれなどの不安を引き起こさないように防衛してる訳だが。 実は、対人のみならず、対物、対事象にも石化のまじないをかけてはいないだろうか。 さらにいえば、それは人工的な物体や事象であるほど石化しやすく、逆に自然的な流れや実体には石化を加えていないような感じがするのである。 スキゾイドなら複数人での旅行だとか、イベント自体に喜びを感じにくく、それよりは、1人で黙々

          スキゾイドの石化は、対人に限らない??

          人生はなんとかなる

          私は、「人生はなんとかなる」と思って生きている。 思っている、というよりもはや、信仰や祈りに近いかもしれない。 しかし、私自身がこの祈りを裏切らない限り、つまり、信じ続ける限りにおいて、この、人生はなんとかなる。が私を裏切ったことは無い。 というか、信仰というのはそんなものだろう。 基本的に信仰とか価値観とかいうのは人間が作り出して勝手に決めつけて信仰してるだけなのだから、概念とか神とかが向こうからやってくるなんてことは無い。 だからこそ、概念だとか神だとかが、私とい

          人生はなんとかなる

          分からない漫画達

          大友とか藤本タツキ的世界観はどうも、私には刺さらないようである。 もっとも、一般的な友人諸君には興奮する漫画らしいのでやはり「私に」ささらなかったということであろう。 ああいう、人間の欲とか葛藤とか感情とかいうものの爆発的、圧迫的な表現はどうにも汲み取れないところがある。 周りの友人は、その葛藤とか主人公とかに感情没入して楽しむのだろうが、私はそもそも登場人物をコマ(駒)のように捉えてしまうクセのせいで、1人に没入するだとか、感情の爆発だとかには感応できない。 それよ

          分からない漫画達

          スキゾイドが孤独から逃れる応急処置

          家の中に幽霊を存在させること。それは私を必要とする魔法の幽霊である。

          スキゾイドが孤独から逃れる応急処置

          AED分からないからやりません!!←コレ

          正直、倒れてるのが女性だからとか、やり方が分からないからとか言われて、ためらう人が多いだろうが、問題はそこじゃない。 「AEDは大事だからやれ!」 としか言わないで心肺蘇生ってなんなのか教えないのが悪いと思う。 そんなの、選挙は大事だから行け!と言われても行かない若者と変わらない。 実はよく分からないからやらないだけだ!! 面倒だし、リスクもあるならやらない方がいいに決まってるさ。 では、 心臓が止まってるってことが、どういうことなのか、「一瞬」で説明すると 「心

          AED分からないからやりません!!←コレ

          小手返し不可能問題

          ほとんどの合気道家は、小手返しを決めることが出来ないと思う。普通に当身やステップを使う格闘技経験者、あるいは一般人相手にでさえ小手返し一つ決めるのは相当難しい。 何故なら、ほとんどの流派の小手返しは、相手が崩れること、あるいは崩せることを前提としている。そしてその根拠は相手の当身の拳を捌くことにある。 しかし、普通であれば当身の拳は打った後に引き戻すことで、体勢が元に戻る。 ボクシングや空手でも、ちゃんと引き戻すから次の拳を打ち込める。であるならば、ほとんどその人間の体

          小手返し不可能問題

          本を読むのに使う右脳左脳

          本を読むのに、使う脳が違うようだ。最も哲学とか科学とか論理性が引き立つ文を読んでいると「右脳的」な視覚的部分は弱まって、むしろ「左脳的」な言語理解的な部分が強まっているようである。実際に、視覚的に理解というものは論理だらけの文章には難しい。数学なんかもそうなんじゃないだろうか。正直、私はこちらの左脳的な理解は難しいし苦手だ。もっとも、右脳的で視覚的、感覚的な理解の方がずっと簡単に感じる。であるから、本を読んでいてもファンタジーだとか、視覚的、感覚的表現に富んだものの方が楽しい

          本を読むのに使う右脳左脳

          記憶を創るということ

          夢の内容を起きてしまってから思い出すのは難しいというが、実は、「現実」の私の行動を思い出すのも難しい。 ほとんどが記憶を思い出す時、一瞬の限定的な写真記憶が呼び起こされるのみであって、具体的な行動や一挙手一投足は記憶されていない。無意識の目線の変化や、身体の動きは記憶しきれていない。 例えば、今日は〇〇に会ったという印象は思い浮かぶが、その時の目線、重心、身体の位置は全く想起されない。まるで、そんなもの無かったかのようだ。あまりにも基本情報すぎて刺激として認識されていない

          記憶を創るということ

          現在を交換し続ける人々

          人間とは普段より、何をせずとも未来には漠然とした希望を持ち、今を生きる幸福感を抱けるようではないといけないのだと思う。 何かにとらわれ、焦りや不安が常に頭から離れないようではいけないのだと思う。 明日の事は、どうだとか、1週間後にはどうだとかそう言った事ばかりにとらわれていて良いのだろうか。 決して、何もするなとか、苦しむなとかそういうわけじゃなく、何もない日常であるならばこそ、微々たる幸福感を常に抱けるようでなくてはならないのではないだろうか。 何かを、手に入れなけ

          現在を交換し続ける人々

          タイパ麻薬と焦る現代人

          現在では、インターネットやsnsの台頭により、多くの人が現実社会だけでなくバーチャル世界でも居住地を手に入れたようだ。 特に若者は、小さな頃からそのニ世界を行き来しつつ生活することにこれから慣れていくのかもしれない。あるいは、もう既にその感覚は常識のようなもので、わざわざ区別するような次元では無いということかもしれないが。 しかし、バーチャルな世界が盛り上がり、活気を孕み、面白いコンテンツを生み出してくると人々の多くはバーチャルな世界によりのめり込むようになる。 もちろ

          タイパ麻薬と焦る現代人

          合気道における間合い

          合気道における間合いとはなんだろう。当身を入れることもあるし、かといって基本は掴んで投げ技になる。 掴むということは、柔道と同じで相当な接近戦となる。 例えば、ボクシングなら拳の飛んでくる間合い。 キックなら足の間合いなど、 どんな技を使ってくるかで間合いが決まる。 では合気道の間合いはどこなのか、植芝盛平はどう考えたのか。 ただ、技を覚えようと稽古するのではなく、 そこを考えてみると、この武術はより面白いように違って見えてくる。 (ちなみに上の画像は拳、足、投

          合気道における間合い