#29 望郷は、失せることなきエメラルド(吉田一穂)/銀杏からすみ
「あ、日本酒…福島のお酒、頼んでいいですか」
ここは渋谷の居酒屋。福島出身の先輩が、メニューの日本地図の一点を見つめて言った。さっきまでインテグラル理論について語っていたトーンが、すこしゆっくりになる。
「もちろん。おちょこを2つ頼みましょう」
運ばれてきたのは飛露喜(ひろき)という日本酒。くいっと口にふくむと濃密な透明感があり、しっかりとした存在感もある。ふう…とここちよい酔いのなかで、遠く離れた「故郷」というものを思った。わたしもまた、日本酒の地図に、無意識に故郷である福岡のお酒をさがしていたのだ。渋谷の雑踏のなかでも、心のうちに濃密に存在している故郷。
ふるさとを遠くに想う、東京の夜
わたしは福岡で生まれ育ち、19歳のとき進学にともなう上京という「合理的家出」をした。以来、12年もの間、故郷を離れていたことになる。
望郷(故郷に思いはせること)について、心を離れない随筆の一節がある。
望郷は珠(たま)のごときものだ。
私にとつて、それは生涯、失せることなきエメラルドである。
また夜な夜な、己の渇きを癒すに降る秘かな泉である。
生の根底は自然にあるからで、いつもそこから新しい命を掬(く)みとるのである。
―吉田一穂(よしだ・いっすい)「海の思想」より抜粋
失せることなきエメラルド。そして、渇きを癒やし、新しい命をくみとる泉。故郷の酒もまた、そういう存在なのかもしれない。
渋谷で福島のお酒を飲んだ次の日、福岡に帰ったらいつもの店に銀杏が売っていた。博多では銀杏のことを「ぎなん」と言う。家の近くにある大きなイチョウの樹を見ながら登下校していたので、「ぎなん」の独特なにおいや風景はわたしのなかの「故郷」のイメージと結びついている。子どもの頃は、どうして大人たちは実をひろうんだろうと思っていたっけ…。今では、居酒屋のメニューにあればかならず頼む、立派な(?)呑助になりました。
エメラルド色の望郷。ぎなん。そして日本酒。そうだ、「ぎなんからすみ」をつくろう。酒飲みをうならせる肴である。
ぎなんからすみの作りかた
まずは銀杏のからにトンカチで傷をつけ(爆ぜるのを防止するため)、10分ほどフライパンで弱火で炒る。ゆっくり中身をだして薄皮をはぐと(やけど注意)、エメラルド色のぎなんが顔を出す。そこにからすみ(パウダー状)をまぶす。
ムチッとやわらかいぎなんを喰むと、からすみの塩っけが舌にふれ、ぎなんはほの甘く、そしてだんだん複雑な苦味を呈す。からすみの旨味がふわりと包み込み、酒を飲まざるを得ない味である。ぜひ、故郷のお酒と味わってほしい。からすみがなければ、ちょっといいお塩でどうぞ。
故郷喪失(ハイマート・ロース)
さて、ふるさとを持たない者もいれば、ふるさとに強烈な愛憎をもつ者もいる。わたしは、後者。
学生時代、望郷は、せんないことと思っていた。もどらないと決めている者にとって(結局戻ったのだけど…)、故郷は離れたい過去だと。でもそんなときに吉田一穂さんのことばに出会って、背を向ける一方で「新しい命」をすくう泉のような気もどこかでしていた。夜な夜な、命を新しくするもの。
この文章は、美しいけど、ヒリヒリする。ただきれいな言葉を並べたのではない、心にせまりくる文章。随筆の一節だけど、詩のようだ。
吉田一穂さんは、北海道に生まれ、16歳で上京。幼少期をすごした古平を愛したことでも知られている。美しいだけではなく、なにか心をとらえて離さないのは、実感だからだろう。故郷というのは、残酷にも優しくも、リアルだな、と思う。
甘い、ほろ苦い、そして、滋味が深い。
作者とおすすめの本
吉田一穂(よしだ・いっすい)1898−1973 北海道生まれ
北海道上磯郡木古内町字釜谷村の漁師の家に生まれ、後志国古平町で少年期を過ごす。16歳で東京・海城中学に入学し早稲田大に進学。22歳で「詩人として生きるぞ!」と決意。三木露風や北原白秋に教えを乞うた。
月しづむ境(はて)に眠らん。
深夜の朱金、商ふあり。
虚しきと抗ふ、わが渇き。
太古を降(くだ)る砂鉄の滸(ほとり)。
「天隕」『暗星系』
彼の詩は、ことば一つ一つが研ぎ澄まされ、しぃんと光っている。「極北の詩人」と呼ばれている通り、やはり北の空気を感じます。
いつか北海道で詩を読みたいな。
めちゃくちゃどうでもいい後書き
銀杏が居酒屋にあったら2秒くらいで食べてたけど、今回、「銀杏めっちゃ手間かかるやん!!」ということに唖然としました。
ペンチでおさえ、1個1個トンカチですこしだけ傷をつける(力加減がむずかしい)→10分くらいフライパンで炒る(時間がかかる)→熱いうちに殻と薄皮をむく(熱い)。あと、その前にフライパンとレンチンどちらも失敗。
もっとありがたがっていただこう…。