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【進撃の巨人という哲学書】24. 芥川龍之介「おぎん」を考える~ ~38話~

アニメタイトル:第38話 狼煙

あらすじ

Season3開始です

巨人の高質化を利用してシガンシナ区に空いた壁を防ごうというウオールマリア奪還計画です。
その為のエレンの訓練が続きます。

崩れた壁から覗いた巨人の顔。
その秘密を握っているであろうニック司祭が何者かに殺されました。
ウオール教が憲兵団を使って拷問し、殺した事は疑う余地がありません。
調査兵団に協力したニックがどこまで調査兵団にしゃべったのか。という調査と、これ以上情報を渡さない為の口封じです。
ニック司祭は全ての爪を剥がされて傷だらけでした。
かなりの拷問を受けて殺されたようです。
どんなに拷問を受けても。殺されてでも守りたい信仰があったのでしょう。殺されても守るべき信仰があったのでしょう。
王都を守る憲兵団は威張り、巨人と闘うが実績を残せない調査兵団を見下しています。
ハンジ兵長は復讐を誓います。
憲兵団はなりふり構わず、調査兵団からエレンとクリスタを奪いに来ます。

憲兵団VS調査兵団という物語が始まるようです。



あれこれ考えてみよう。

ニック司祭は全ての爪を剥がされて傷だらけでした。
かなりの拷問を受けて殺されたようです。
どんなに拷問を受けても。殺されてでも守りたい信仰があったのでしょう。殺されても守るべき信仰があったのでしょう。

そこで。今回は芥川龍之介の名作「おぎん」を考えたいと思います。

<あらすじ>
江戸時代の話です。おぎんという少女がいました。
生みの親は両親とも亡くなってしまいました。
しかし育ての親。孫七とおすみの愛に包まれて、おぎんは幸せに育ちます。
この孫七とおすみはキリシタンで、おぎんもキリシタンとして育ちます。
クリスマスの夜に役人が押し入って三人は捕まりました。三人は拷問を受けます。
それでもキリシタンとして「はらいそ(天国)」に行く為に悪びれる気色もありません。
ついに火あぶりの刑の決行となります。じょあん孫七、じょあんなおすみ、まりやおぎんの三人は張りつけとされます。見物人は今か今かと押し寄せます。
役人は最後に「もし、おん教を捨てると云えば、直すぐにも縄目なわめは赦ゆるしてやる」と言います。
敬虔なキリシタンの3人にはそんな言葉が届くはずがありません。
ここまで残忍な拷問にも耐え抜きました。ここで刑に服する事により、キリストの云う「はらいそ(天国)」に行けるのです。
ところがです。
「わたしはおん教を捨てる事に致しました。」とおぎんが、転びます。
「おぎん! お前は悪魔にたぶらかされたのか? もう一辛抱、おん主の御顔も拝めるのだぞ。」
という孫七の言葉も虚しく、縄目を解かれたおぎんは言うのです。
「わたしはおん教を捨てました。その訣はふと向うに見える、天蓋のような松の梢こずえに、気のついたせいでございます。あの墓原の松のかげに、眠っていらっしゃる御両親は、天主のおん教も御存知なし、きっと今頃はいんへるのに、お堕おちになっていらっしゃいましょう。それを今わたし一人、はらいその門にはいったのでは、どうしても申し訣わけがありません。わたしはやはり地獄の底へ、御両親の跡あとを追って参りましょう。どうかお父様やお母様は、ぜすす様やまりや様の御側おそばへお出でなすって下さいまし。その代りおん教を捨てた上は、わたしも生きては居られません。」
そして、おすみの心は揺れます。
「俺だけは死んではらいそに行く。」という孫七におすみは言います。
「わたしもお供ともを致します。けれどもそれは――それは、はらいそへ参りたいからではございません。ただあなたの、――あなたのお供を致すのでございます。」
そして、孫七もおすみも、お銀とともに転ぶのです。

そして最後に芥川はこう結びます。
 この話は我国に多かった奉教人の受難の中うちでも、最も恥はずべき躓きとして、後代に伝えられた物語である。何でも彼等が三人ながら、おん教を捨てるとなった時には、天主の何たるかをわきまえない見物の老若男女にさえも、ことごとく彼等を憎んだと云う。これは折角せっかくの火炙も何も、見そこなった遺恨いこんだったかも知れない。さらにまた伝うる所によれば、悪魔はその時大歓喜のあまり、大きい書物に化ばけながら、夜中刑場に飛んでいたと云う。これもそう無性に喜ぶほど、悪魔の成功だったかどうか、作者は甚だ懐疑的である。

さあ。考えてみましょう。
これは宗教の矛盾の物語です。
キリスト教は、キリストを信仰すれば、天国に行けると言います。
キリストを信仰しなければ、地獄へ堕ちると言います。
それならば、キリスト教を知らずに死んだおぎんの生みの両親は、地獄にいるという事です。
おぎんは自分だけが天国に行くのは生みの両親に申し訳ないというのです。
だからおぎんは生みの父は母のいる地獄の世界に行く決意したのです。
共に地獄の苦しみの世界に行くと決意したのです。

これは当然の宗教の矛盾です。
客観的に考えれば誰でも疑問に思う宗教の矛盾です。
しかしそれを疑問に思う力を奪う事が宗教の恐ろしさです。

当時のキリスト教は仏教を悪魔といいます。
しかし、キリスト教の言う「自分は天国に行きたい。」という心そのものがもうすでに悪魔的じゃないのか?という当然の疑問が浮かびます。
天国や地獄があるのかどうかは分りませんが。
「私は天国に行く」という考えより「私は地獄に行ってもかまいません」という考えの方が貴いのではないでしょうか。
つまり、親鸞のいう「悪人正機」はキリスト教のそれを上回る貴さを感じるのです。
だってそうでしょう。「私は天国に行く」という事ばかりを考えのは浅ましいではありませんか。
それより「私は地獄に行ってもかまいません」という心になって初めて、そういう心美の人を、阿弥陀様は救ってくれるのではないでしょうか。

と、ついつい仏教哲学マニアの私はキリスト教vs仏教哲学という対立軸で考えてしまいましたが、芥川はもっと深い
だって、おぎんは、転んではいますが、キリスト教の教えを捨ててはいないのです。
「わたしはおん教を捨てました。」と言いながらキリスト教のいう地獄へ落ちる覚悟をしたのです。

深すぎて頭がくらくらします。
神とはなんでしょう?宗教とはなんでしょう?

私は胸を張った無神論者ですが。多神論者でもあります。
山にも海にも岩にも樹木にも、花にも石ころにも八百万神に手を合わせます。
私は胸を張った無宗教者ですが。多宗教者でもあります。
神社も好きだし仏教も好き。おしゃれな観光地には教会にも足を運びます。

私はそれもこれも全ては自分の中にあると確信しています。
だから誰かの言葉を鵜呑みにはしません。
だから常に、自分の中の神に問いかけます。
いや、繰り返しますが、神なんて信じていません。
私の神は私です。

ニック司祭は過酷な拷問の末に殺されました。
それでも口を割りませんでした。
ニック司祭の己の命より守るべき神とはなんだったのでしょう?

ハンジ兵長は復讐を誓います。
「では、捜査の方よろしくお願いします。そして強盗を捕らえた際はこうお伝え下さい。このやり方にはそれなりの正義と大義が合ったのかもしれない、が、そんなこと私にとってどうでもいいことだ。悪党共は、必ず私の友人が受けた以上の苦痛を、その身で生きながら体験することになるでしょう。ああ、かわいそうに! そうお伝え下さい」

これはニック司祭を殺した憲兵団への宣戦布告です。

ニック司祭もハンジも憲兵団もそれぞれの信じるものを基準に行動しています。
神がいるのかいないのか。それは分りませんし興味もありません。
それでも間違えなく言える事は、そのあやふやな神を信じるのは、紛れもない自分だという事です。

それぞれが信じる者の為に戦います。
つまりは、それもこれも自分の為です。


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