自分ができる詩への貢献は、自分らしく書くこと <PSJ2018ファイナリスト ジョーダン・スミス>
ポエトリースラムジャパン(PSJ)2017年春大会に続き、2018年大会でもファイナリスト進出を果たしたジョーダン・スミスさん。翻訳家であり比較文学の研究者でもある彼のリーディングは、日本語と英語を行き来する音の面白さと知的な冒険に満ちています。
事情により、残念ながら全国大会参加は叶いませんでしたが、生い立ちから詩やポエトリーリーディングへの思いまで、たっぷりとお伺いしました。
波乱万丈の半生と、様々な言葉との深いつきあい。じっくりお楽しみください。
学生時代から日本文化との出会いまで
―最初に詩を書いたのは?
ジョーダン・スミス(以下、ジョーダン):小学1年生のとき、文学が大好きな先生が隣の町で行われたライターズ・ワークショップに誘ってくれたんです。その時が最初かな。小学6年生の時からヒップホップの歌詞を書き出して。家族旅行でグランドキャニオンに行ったこととか、野球の試合がどうなったとか。
高校に入るともうちょっとアブストラクトになって、アメリカやヨーロッパの現代詩、ラテンアメリカの詩人にも影響されました。4年生でカリフォルニアに引っ越して、12歳からスペイン語も勉強したので…。オクタビオ・パス、ホルヘ・ルイス・ボルヘス、あとはセサル・バジェホというペルー詩人とか。
高校の時に1年間くらい付き合った彼女は、詩もアートも音楽もする人で、アメリカの高校生らしくいつもラブレターを交換していました(笑)。色鉛筆やカラーペンを使って絵も入れて、それも刺激的でしたね。最初は詩を受動的に読んでいたのが、だんだん経験や気持ちを伝える道具になったんじゃないかと思います。
高校時代はカリフォルニアのモデストという町。ジョージ・ルーカス『アメリカン・グラフィティ』の舞台です。ほとんどすることがなくて、免許が取れる16歳の前から親の車を運転して(笑)、お酒飲んだりドラッグ使ったり。楽しみのない町では自分で楽しみを発明しないといけないから、ティーンエイジャーは過激になっていくという(笑)。
たまに友達と、パーティや夜中の公園でフリースタイルしていました。初ライブはたぶん、大学卒業してから。大学の時はワイワイすることで忙しくて…。カリフォルニア大学サンタクルーズ校でしたが、ルームメイトがDJと「フリーランスの薬剤師」(笑)で、もう毎日パーティー(笑)。
23歳の時に、韓国に行ったんです。大学生向けプログラムに英語教員として参加したら、高麗大学の人から教えに来てくれないかと言われて。え、僕でもいいんですか!? みたいな(笑)。毎日が冒険で、ノートにたくさん詩や歌詞があふれ出るような気持ち。それでちょこちょこ書いたりしたんですけど、詩集にすることは全く考えていませんでした。
そのあと日本人の女性に出会って一目惚れして、東京に引っ越してきたのが25歳。一度カリフォルニアに戻って、そこからまた人生が面白くなって、結婚して、子供も生まれて。26歳でUCLAの大学院に入学しました。奨学金もありましたが、家族のためにたくさん仕事を始めました。ハリウッドのプロデューサーや俳優の子供たちの家庭教師…いい商売でしたが忙しくて。
子供が生まれた時に、断酒をしました。辞められたけど、すごいストレスと怒りを飲み殺していたことに気づいたんですね。自分は陽気でやさしい人間だと思ってたけど、断酒した時に、悪夢みたいに全部ブワーッと出て。それで、なんか書かないと辛すぎると思って、クリエイティブ活動に発散したかな。
比較文学研究でスペイン語と日本語と英語を選びました。ロスには日本の国際交流基金のオフィスがあり、UCLAとUSC(南カリフォルニア大学)にはジャパニーズスタディーズの学部もあって、いろんなイベントが開催されるんです。で、2006年くらいに桐野夏生さんが来た時に通訳をしました。小説『グロテスク』の英訳が出たあとのブックツアーで、1週間くらいロスを回りました。本当にボロボロな日本語でしたけど、桐野さんと文学や人生のことをお話しして、日本語のコミュニケーションが少しずつ楽になった気がします。
30歳のとき、カリフォルニア州立大学ロングビーチ校で講師になりました。そのときにはジェフリー・アングルスさんと、いとうひろみさんを招きました。ほかには東浩紀さんとか、原研哉さんとか。
それからUCLAで日本のポップカルチャーの授業を担当することになったんです。でも日本には1年しかいたことないから、無知(笑)。アニメも漫画も全くわからなくて、アニメエキスポとかで通訳ボランティアをしました。アニメ関連やモーニング娘。やAKB 48のイベント。とっても変な経験でした。18歳くらいの可愛い女の子の日本語が、「ハロー、エブリワン!」って自分の声でアナウンスされる…超キモいと思って(笑)。だけど若い女性の声も自分の体を通して通訳できたので、いろんな声が自分の中に響いたり飛び交ったりする状態になって。そのうち、それが詩の形にでてくるようになったんです。いろんな声を混ぜて詩を書くという。
そのあと、ブラウン大学のフォレスト・ガンダーさんという詩人の教授に誘われて、吉増剛造さんの詩を翻訳するプロジェクトに参加しました。吉増さんは作品のビジュアル面もアーティスティックなのに、英訳するとそれが消えてフラットになってしまう。だからもっとクリエイティブな翻訳方法を発明しよう、ということです。
そこに参加したことで日本の現代詩人にも少し名前が知られて、水田典子さんの翻訳をしました。その水田先生が近田賞という賞を受賞されて、授賞式に招いていただきました。授賞式は城西国際大学で行われたんですが、水田先生はこの大学の理事長でもあるんです。授賞式の朝、理事長室にうかがったら “Thank you for your transrations. Why don’t you teach in Josai?”「ええーっ!」って(笑)。優しいオファーをいただいて、2014年秋に家族で日本に引越しました。
ToPoJo、そしてPSJに参加
城西国際大学には、水田理事長と田原(でん・げん;Tian Yuan)さんが立ち上げた国際現代詩センターがあって、いろんな詩人が関わっていました。吉増剛造さん、野村喜和男さん、三角みづ紀さん、文月悠光さん、谷川俊太郎さん、白石かず子さん、高橋睦郎さん…。
翻訳も続けていて、英語圏のための現代詩の雑誌 “Tokyo Poetry Journal”(ToPoJo)に参加することになりました。大学の詩の朗読会だけじゃなく、SPIRIT(渋谷で開催されている月例オープンマイク)などにも顔を出すようになって。カニエ・ナハさんや永方佑樹(ながえゆき)さん、アンドリュー・カンパーナさんとも出会って。英語圏の詩人、日本の詩人、中国や他のところから来た詩人、本当にいろんな人と仲良くなれた。
あとは管啓次郎さん。本当に大好きな詩人です。管さんもいろんな言語ができる方なので、彼のイベントに招かれたとき、自分もいろんな言語を使ってみたいと思ったんですね。まず英語で書いた一行を日本語にして、英語の一行と日本語の一行から別々のバースを作る、実験的な詩を書いてみようと。翻訳では「忠実性」という概念に縛られていますが、自分の詩では完全に自由になるからとても楽しかった。
―おもしろい! そして、PSJ2017年春大会に参加されました。
ジョーダン:大島(健夫)さんや道山(れいん)さんたちと仲良くなりはじめたころ、PSJに誘ってもらって。半分英語、半分日本語の詩はどう受け止められるか不安だったけど…。ちょうどそのころ石渡紀美さんを英訳していたんですが、2017年の東京大会を見に行ったら石渡さんが入賞して、「全国大会で待ってるぞー」って言ってて。優勝というより友情のため、いろんな人と仲良くできたらいいなと思ったんです。絶対1stラウンドでアウトだと思ったんだけど、幸いなことに会場賞をもらって、皆さんの応援も暖かくて。すごい楽しかった。
本当にいろんなスタイルを見て、この人たちの詩を英訳したいと思うようになって。今年、ToPoJoの編集長になりましたので、これからもPSJや日本の若い詩人の英訳をどんどん載せていきたいです。
現代詩とリーディング、多言語のはざまで
―現代詩の大御所から若い世代、さらにリーディングの詩人まで、広く交流されていますよね。その違いは感じますか?
ジョーダン:現代詩の朗読会では、朗読スタイルは比較的ストレートです。PSJでは、身振り手振りやパフォーマンス能力の素晴らしさに圧倒されました。パッションを声にしているのが印象的でした。
出版のために詩を書かれる方は、朗読に身振りや演技を加えることをちょっと「ずるい」、詩の言葉には邪魔だという気持ちがある気がします。PSJなどの詩人たちはそれを恐れずに、言葉と演技をうまく合わせて新たなジャンルを作り出しているのかもしれない。どちらかというと僕は、スラム系の詩と親和性を感じます。
アメリカのスラムだと、結構テーマが限られているんですよ。若い人のアイデンティティの悩みや政治的な反抗…など。PSJでは質の高い詩を、様々なパフォーマンスを生かして表現している。テーマも、パーソナルな話や自伝的なものから抽象的で意味深く示唆的な作品まであって、逆にこの多様性を海外に知ってもらいたいと思うようになりました。
―それは主催としても嬉しいです! PSJに出会って、ご自身が変わった部分はありますか?
ジョーダン:僕はもう、全然違う人間になりました。ずっと自由を求めていたんですけど、ブラザーれいんとか大島さんとか、一緒に朗読するとすごい自由を感じます。新納新之助さんからは電話がかかってきて「Jordanは何を表現したいですか」みたいな質問をくれて。そうか、ただあふれ出る言葉を捕まえて書くような活動だったけど、そう聞いてくれたことで、自由を楽しみながら方向性を考えたほうがいいと思わされました。
―朗読のなかで英語があり、日本の標準語があり、たまに関西弁も使いますね。そういう使い分けや響きの違いについて、どう感じていますか?
ジョーダン:とっても面白い質問! 僕は外国人の耳を持っていて、独学で日本語を学びました。ある意味で変だけど、ある意味で自然な日本語。妻は神戸出身なので、関西弁も自然と吸収しました。自分が関西弁で話していることに、気がつかないときもあるんです。
最初は日本人のマナーや身振り手振りも真似していましたが、それはこのでかい白人の体には合わないかなと思って。自分は日本人になれない、ということを最終的に認めたんです。心のレベルで礼儀を守るということにして。そうすると、その態度が詩にも出てきた気がします。関西弁だったり関東弁だったり、カリフォルニア英語だったりで話すことの方が自然じゃないかと思って。
僕より面白い詩やうまい詩を書く詩人はたくさんいますけど、自分は何が貢献できるかというと、自分らしく詩を書くということ。自分は何なのかというと、今まで生きたところの重層的なコンビネーションじゃないかと思うんです。
言葉を使い始めた1歳のころは西アフリカのシェラレオネに住んでいて、テメニー語とかメンディー語。でも何が外国語で何が母国語かわからない。2歳の前にアメリカに戻って、テメニー語もメンディー語も全く忘れたけど、母語はこれだと固定された概念はないんです。どんな言語でもある意味で母語になれる、という感覚。「義理の母語」、mother tongueじゃなくてstepmother tongueとかmother-in-law tongueとかね(笑)。自由に駆使できるなら、なんでも自分の言語だと信じてる。
あとは、10歳くらいからヒップホップが好きで、そのリズムをずっと大切にしているので、それを日本語でどう発音できるか、トライしてみたいと思っています。環境のリズムは、骨の深いところに吸収されているんじゃないかな。そのリズムに従って書くのも、自分の遺伝に対する忠実性だと思います。
―ジョーダンの個人的な体験ではあるけど、多くの人に今とても大事な考え方だと思います。
世界には色々と問題があるけど、その軸は愛とリズムだ、と。より良い世界になって行くように。
【プロフィール】
ジョーダン・A.Y.・スミス
翻訳家、詩人、比較文学・翻訳法を教える准教授。2018年7月、BBC Radio 4の詩作冒険番組に出演(2019年1月には共著詩集『樹海詩集:森の入口』として、著作化をプロデュース)。他に米アイオワ大学で発表した共著詩集『√IC: Redux』(共著者:カニエ・ナハ、永方佑樹)も。また、「Tokyo Poetry Journal」(http://www.topojo.com)編集長として、平成時代にデビューした詩人たちを紹介する特集「Heisei Generations」等を担当した他、翻訳者として吉増剛造、最果タヒ、古川日出男、三木悠莉、三角みづ紀、文月悠光などの英訳も行う。ポエトリー・スラム・ジャパン2017年準優勝、2018年全国大会ファイナリスト。UCLA、高麗大学、上智大学などで教鞭を執った経験を持つ。
インスタグラム:@jordangiraffe
(取材・原稿/村田活彦)