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note11 ごはんのこと/サラミッダのこと。

 ごはんのこと。朝ごはんのこと。お昼のこと。おやつのことを考えます。それは子ども時のことを思い出すことにつながります。朝になるだけで涙が出たこと。お昼になって、部屋の中に光が入ってきて、おばあちゃんとごはんを食べたこと。友だちの家に行くと、それぞれのおやつがあったこと。なぜか、自分の家で食べるのと、友だちの家で食べるのはちがうんですよね(同じお菓子が出たとしても)。そんな、あえて言葉にすると、なんかくすぐったくなるような、もう2度と戻れない時間を思って、体の奥の方がギュっとなるような、そんな「なにか」を考えます。
 そして、それはぼくにとって、サラミッダのイラストにつながります。サラミッダの言葉と文字も。
 暮らしていた街も、食べていたものも、生活のスタイルもぜんぜんちがうけれど、サラミッダのイラストの中には、あの日の自分が、友だちが、妹がいます。あの頃の光も、風も、雨も、葉っぱも、縁側で食べたお弁当も、彼の家に行くと必ず出てきたハーベストも、あの線で、あの色でできていたような気がします。


 
 はじめは、子どもに対しての無条件の肯定感のようなものだと思っていたのですが、どうも、ちがうような気がしてきて、近年はサラミッダのイラストや言葉にふれる度に感じる「なにか」を改めて考えています。それはレイチェル・L.カーソンの『センス・オブ・ワンダー』を改めて読んだ時にも考えたことだし、自分が毎年、児童館の子たちと朗読劇をつくる時にも考えることです。いつも勝手にひねくれている自分が、ふと肯定的な心にふれて、気づくこと。それは、単に子どもと大人の対立項で考えるものではないのかな、と思っています。最近では、久しぶりにプリファブ・スプラウトの『アンドロメダ・ハイツ』を聴いた時に思いました。この、あたたかくなりたい、やさしくなりたい、と思う気持ちと再会することの衝撃はなんだろうと。

 
 サラミッダのカップ、お皿などは以前、三越などで販売されていましたね。でも、いまはもう販売されていないので、メルカリです。30年前くらいに買ったものはさすがに壊れてしまいましたが、同じ柄のものがあったりと、この時代だからこそ、ふたたび会えたものもあって、それもまた、考えさせられるものがあります。


 
最近はこのゾウが気に入っています。


 
 いまから、26年くらい前に書いた詩に『卵の上のユニーク』というものがありますが、それはサラミッダのイラストから着想して書きました。もちろん、いま読み返すのはかなりはずかしいのですが、そうした過去といまをつなげていけたら、と思って、このnoteを書いているところもあるので、載せたいと思います。(と言いつつ、さすがにちょっと変えています)
そして、新たに『卵の上のユニーク』を書いてみたので合わせて読んでもらえるとうれしいです。

【詩】#26/卵の上にユニーク(1998年)

朝になると
柔らかい光が部屋の中に集まり
フォークとスプーン ミルクが笑う
そっと口づけする おしゃべりな空気
もう戻れないけれど まる

一本の長い線の上
音符があって
ブーツがあって
土曜日の次には必ず日曜日があるでしょう
揺れる木の枝には
いくつものぼくがいて
悲しみは消えることはないだろう
その長い線の上
音符をつかまえ ブーツを履いて踊る
帽子を深くかぶり とんがり帽子はさんかく

ママが焼いてくれたオムレツ
浮かんでは消える あの日
「あなたは間違っている」
この言葉を抱えて ぼくは家を出た
いまも手探りで歩く
小さななにかが見えたら 角を曲がって 早く
行ったり来たり 街はしかく

*

【詩】#27/卵の上のユニーク(2024年)

ぼくはなにを祈っていたのだろう

どうして泣いているのだろう

大人になれば
すぐに理解できると思っていたけれど
やっぱり まだ なにもわかっていない

バス停に立っていたのは
子どもの頃のあなた

思い出に心を預けると
体のどこかが
あたたかくなったような気がするけれど
どうしても そこから
また動き出してしまう

知らない人の前だから
たくさん泣けた

ほんとうは
この夕暮れを一緒に
見ていたいだけだった
ほんの少し 言葉を添えて
小さく頷いて
バスに乗る

それだけのことなのに


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