私と父の介護の15年~いままでありがとう。大好きだよ。
中学生1年生の冬。
部活から帰ると電話があり、入院中の父が悪化した。父が倒れた。もともと病気で、入退院を繰り返していたが、初めてICUに入った。そこから、更に私の人生は変わっていった。
ICUに入った時は。母の車で、家族に隠すように泣いたのを覚えている。常に「お父さんが居なくなったら」と考えるしかなかった。
父は一命を取り留めた。それから、再び15年入退院の繰り返しになる。常に父が居ない家。
母は3人を育てるために、必死で働く毎日だった。私は、塾をやめた。塾で先生に嫌われていたし、全然教えて貰えなかったのでちょうどよかった。私は楽しくない学校生活に嫌気がさしていたが、私は毎日行った。母が厳しかったし、苦労はかけたくなかった。父が退院して、家で寝たきりの時は、父が居るのが安心で、学校から帰ってきて父との話す時間が一番楽しかった。一緒に映画をみたり、一緒に夕方入っていた「はぐれ刑事」などみていた。映画を好きになったのも父から影響している。
ずっと飼いたかった犬を父の友達からもらった。
何年も何年もペットが欲しくて、そのポメラニアンに赤ちゃんが生まれて譲ってくれることになったのだ。それがポメラニアンのラン君。いつも動物事件は私が勝手にもらってきたところから始まっている。これは話したいので書いておく。私が小学4年生の時、友達がハムスターを飼っていて、こっそりもらってきたのだった。カバンの中からシャリシャリ音がする!!と、兄にバレ、父にチクられます。私はバレちゃってやばい怒られる~と思っていたら、父「あれ~しょうがないね~よし。ペットショップ行くぞ~」と必要な物をすぐ買いに連れていってくれた。泣けるほどの安堵。しかし飼いだして間もなく。赤ちゃんが生まれた。なんとハムスターのチョロちゃんは妊娠していた。そんな時も父は「ペットショップ行くぞ~」と」。ほんと最高なお父さんだった。
中学3年生の冬~高校生
受験の時に父は精神的におかしくなってしまい、このままじゃ病院にいれなく、まずいということになり、帰宅した。それから自宅に父がなじむまで、相当な体力を使った。
父は毎日、何かにとりつかれているかのように壁に話しかけて、怒鳴り散らし、ずっと怒っていたのだ。毎日怒鳴り散らして、疲れて寝るの繰り返し、あの時は、本当に誰に対してもいつもの父ではなかったし、勝手にテレビ局に電話したりクレーマーとなった。誰に伝えて誰に怒っているのか本当に子供の私もわからなかった。あまりにも暴れるし、怒るので警察に来てもらったこともあったが、自分の意志がないと連れていけないと言われた。私はその時ちょうど高校に入った。高校では中学とは違い心機一転で、同じ中学校の子は以外と少なかったので、友達も新たに作れて最高に楽しかった。学校から帰ってきても、家に着く前に父の怒鳴り声が聞こえてきた。「あ~またやってる。」私は子供だったし、ただおとうさんと話すしかできなかった。ずっと怒っているから話になんかならないし、だけど私は諦めずに話しかけた。
父はうつ病だった。15年も前だと現在と医療も全然違うし、早期発見が出来たんじゃないかとおもう。
合う薬がみつかったのか、落ち着くようになった。毎日状況は変わっていく。良くも悪くも。
父は私が毎日学校が楽しい事や、茶道部が楽しいことも。楽しい事だらけだったので、父もすごく喜んでくれた。やっぱり父の笑ってる姿が好きだった。友達が来た日も父に合わせたりすると本当に喜んでいた。
いつも歌いっぱなしの私を一度もうるさいと言わないし、ずっと踊っていてもずっと微笑んでいた。私の作る焼き菓子を沢山食べてくれて、いつもタッパーに入れて大事に食べてくれた。お菓子作りが好きなのも父在っての自信につながったと思う。
父はいろんな病気をもっていた。
車椅子、不整脈でのペースメーカーを入れ、胃ろう(胃に直接送る管が胸あたりに入っている。)人工肛門(腸に直接つける袋)を付けていた。
人工肛門は、看護師さんか家族しか出来ないので、介護さんはやってはいけないので、毎日人工肛門の便の袋を取り替えたり、袋が爆発してしまった時や、腸の上辺の洗浄。清潔にするために。母は朝。母が居ない時の処理は私で協力してやっていた。これが毎日だから本当に大変で、それと部屋に簡易トイレがあるのでそれを投げたりと、学生の時は、苦痛でしょうがなかったが、当たり前のことなのでやった。16歳からトイレの世話ってすごいなと思う。
私が高2になり、バイトを始めた。バイトも楽しかったが、ここから、介護をしたくなくなり反抗期に突入した、帰らなくなったり友達の家に行くことが増える。バイトを増やしたり何個も掛け持ちしたりした。父との時間も減った。だけど父は私を何も責めなかった。いつもありがとうって言ってくれて。何も言い返すことはしなかった。当たり前の介護の毎日になる。高3になり、遊ぶことも減ってきた。
バイトを沢山入れて、社員にならないかと誘われたが、責任の重さから、病んでしまっていた。まだ18歳だし正社員という型にハマりたくなかった。
高3の秋に幼稚園の先生の夢もやめ、就職もやめ、今のバイト先で続けることにした。うちの家は本当に余裕がなかったのを知っていた。だから自分の事は自分でと思ってその道にきめた。
父がまた入院になる。帰っても父はいない。また検査。。
手術。長く入院になった。
母はまた病院に通う毎日になる。母とお見舞いに行く。仕事もあるので頻繁に行けなくなった。行ける日は行った。
卒業し、一度ニートに。そして母になる。
ニートの間2カ月で免許をとった。
免許をとりすぐにバイトをはじめる。兄も別の店舗で働いていたので、興味があったし、女性の現場が嫌だったのもあったのでこの仕事についた。
父が退院したが、もうすぐ危ないかもという話は何度もあった。
私は学生時代から早く結婚して、自分の子供を父に見せるのが夢だった。父が死ぬ前にと。バイトして2年たったとき娘を授かった。素直に嬉しかった。「20歳」若いだけに周りからはおめでとうはなかったが、生まれてからみんな変わっていった。父が一番喜んでくれた。危なかったのに数値もよくなって、もち直したのだ。本当に赤ちゃんのパワーってすごいし、父は子供が大好きだったので、たくさん抱っこしてくれた。娘は父になついて泣きもしなかった。
娘が1歳になる1週間前だった。ちょうど実家に遊びにきていたら、母が腹痛を訴え緊急入院に。まさかな事が起きた。結婚し落ち着いているのは私だけだったので、旦那に伝え、父を見ることに。母の入院のサポートもしないといけなかったし。母は来なくていいと言ったが心配で行った。母が退院するまで本当に大変だった。父の胃ろうは毎日だし人工肛門の処理もあるし。娘はまだ授乳期、そして毎日の夜泣き。離乳食。そして旦那のごはん支度。どんだけしてるんだ私はと思う。1週間もいれば、頭もおかしくなっていき。父と喧嘩が始まる。ちょうど娘の1歳の誕生日だった。二人で喧嘩したが、娘のおかげですっかり仲直り。「お互いもう少し頑張ろう。」って話をした。母がいないと父も不安になるのがわかる。
父とは沢山乗り越えたことがあるからこそ思い出がたくさんある。
元旦那さんは、私が昔から介護をしているのをしっていたが、身に感じていないから介護を理解できなかった。「家ほっといて何やってんの?」と。言われたのを思い出した。家族全員に介護の理解って一番難しいのかもしれない。割り切って理解する人もいれば、誰かやってるからいいや~とか、何もやっていないのに、なんで忙しいの~?みたいな口をだしてきたり。やっぱり本人が身に沁みないと分からない事ってあると思う。そんな無神経な発言を沢山受けてきたが、母と一緒に協力したからできたことも沢山あった。
自分も母になり子供を育てることや、父や母の偉大さに気付けたし、父はずっと寝たきりだったが、居るという存在だけで私の安心だった。
私が離婚したいと言った時も、帰っておいでとすぐ言ってくれて沢山泣いた。実家に住むようになり、父の事も当たり前にこなした。この時には、便が手に付いたってなんとも思わなくなる。逆に父のほうが「ついちゃったから、拭きな」とウェットティッシュを渡してくれたりしたが「洗うから大丈夫」と言うと父は「ありがとう」ていつもいう。
人ってそのたった一言で「全然大丈夫」っておもえちゃうんだよな~
父はいつも「ありがとう」って言葉を言ってくれた
私が23歳で調理師免許を取った時は父が一番喜んでくれて、あのお父さんの嬉しそうな顔は忘れない。父は努力家で、重機などの資格を沢山持っているのだ。だから私に資格は持っていたほうがいいっていつも言ってくれていたので、いろんなのに挑戦したし、褒めてくれた。
私の好きな事や楽しかった事や嬉しかった事全部一緒に喜んでくれた。
何も否定せずに、好きな事を褒めてくれた。沢山教えてくれた。私からすると父だけが優しく救いだった。
娘との思い出も沢山で、父の日のプレゼントに娘はじいちゃんに書いてて父は絵をもらって泣いていた。娘が父を、お父さんと呼んだ時も照れて笑っていた。
父は肝臓がんになった。延命治療をしていた。
父が亡くなる2週間前。私は仕事から帰って、母が「ちょっときて~」と
父をみると呼吸が出来なくなった。沢山声をかけ、「お父さん~お父さん~」発作が起きたのだったそして錯乱状態になった。私は発作を見るのも初めてだったし、怖くなって声が詰まって涙が止まらなくなった。すぐ担当の先生に電話し、救急車を呼んだ。緊急で脳外科に行った。父はおしっこがその日でていなく、水分もとっていなかった。検査結果後。アンモニアが脳にいってしまったのだ。それから、次の日にいつも入院してるところに転院された。
父は。その日を境に。。元の父は戻ってこなかった。意識はあるが、父ではなかった。だけど「ありがとう。ありがとう。」といっていた。
父の最後は、最後まで苦しそうだった。痰が詰まって可哀そうで早く逝かせてあげたかった。「長い間病気と闘って頑張ったね。お疲れ様でした。今までありがとう。だいすきだよ。」涙が止まる事なんてなかった。
父が発作が起きて10日目のこと、母と話し合って。斎場に電話して、段取りをとってもらっていた。最後の前日も斎場に電話し亡くなってすぐに斎場に行けるように手配してもらった。この母との連携はすぐに2回も役に立つのです。
父が亡くなったあとは。15年もの介護生活が終わったということ。父の介護があったから、犬の介護もスムーズにできたこと。祖母や、叔母のお葬式も一から全部出来たこと。
父が亡くなっても最後まで私に学びの場をくれました。感謝しかありません。
父が亡くなって6年。ずっと大好きだな〜て思います。
私にできる事がまだまだある気がする。だれかのサポートや、手助けや、話をきくだけでも、何か役にたてるんじゃないかと思っています。だから、父が亡くなってすぐに、高齢者住宅の調理師で働き出しました。何回も入居者さんを助けられたし役に立ったよ。ありがとう。お父さん。親孝行できたかな?・・・ひとつだけ。お父さんとの約束は守れそうもないよ。
最後まで読んで頂きありがとうございました。