見出し画像

インド旅|物乞いとご飯を食べ、笑う。ただそれだけで幸せ。

南インドのマドゥライという場所に来ていた。

予定など立てず、自由気ままに過ごしたい。観光地に行かなければいけない。なんて、使命感に駆られた旅はしたくない気分だった。どうせそんな気持ちで行っても、つまらないだろうし。私は、バス停のベンチに腰掛け、日本から持ってきた本を読むことにした。目の前に広がる日本語が妙に温かい。錆びついたバスが通り過ぎ、砂埃が舞うなか、乗りもしないバスを待ち、ただ本を読んでいた。

しばらくすると、一人のインド人が現れた。彼はバス停の周りを行ったり来たりする。たまに私の傍に来ては、右手を差し出して指を擦っていた。いわゆる物乞いというやつだ。インドではよく見かける光景である。だが、私は彼の存在を無視し、ひたすら読書を続けた。

その後も、物乞いは街行く人に右手を差し出し、お金を求め続けた。そして、バス停のベンチに腰掛け、項垂れる。本を読んでいる私には、もう右手を差し出してこない。おそらく、疲れたのだろう。そんな姿を横目で見ていると、だんだん彼の存在が気になり始めてきた。彼は生気を失いかけている。いつの間にか、ページを捲る手が止まり、私は彼に話しかけていた。

なぜ物乞いをしているのか。仕事はどうしたのか。どうやって飢えを凌いでいるのか、など。彼は私の質問には答えず、どこか遠くを見ていた。

すると、彼はズボンのポケットに手を伸ばし、煙草を取り出し、吸い始めた。その姿を見て私は思わず口にしてしまった。

「お金もないのに、なぜ、たばこを吸うんだ?」と。

そして続けた。「お金がないなら煙草は吸わない方が良い。まずは、そこからだろ」と私は彼に説教じみたことを言ってしまった。

彼はどうしようもない人間だと思った。だが、自分は説教できるほど、偉いのか。日本という恵まれた土地で生まれ、何不自由なく過ごし、娯楽のために旅をしている。自分の立場を棚に上げて、彼に説教していることに、疑問を覚えた。勘違いしていないか。お前は彼に何をしてやれる。彼を救ってやれるのか。色々な疑問が頭の中を駆け巡る。だが、それらに答えを見出すことはできやしない。私が偉そうに説教じみたことを言ったところで、彼の現状が変わることはないのは確かだ。

だが、彼は無言で私に煙草を差し出してきた。彼の行動の意味が本当に理解できなかった。お金が無いのにどうして……。今振り返ると、彼なりの親切心だったのだろうか。

この街には美しい寺院があり、街全体を神様のご加護が照らしているようにみえる。だが、その裏には、背けてはいけない現実がある。私は彼のような物乞いに会うたびに、どうすることもできず、ただその場を後にしてきた。「差別は良くない」「格差社会は良くない」と考えていても、綺麗事だけでは済まないと実感することが多々ある。

そんなやるせない気持ちの中、ふと思い、「一緒にご飯を食べよう、もちろん僕のおごりで」と彼に言った。彼は最初は驚いて、私の提案を断ったが、私の気持ちが通じたのか、最後には了承してくれた。

私たちは、ローカルなビリヤニレストランに向かった。お店に入ろうとすると、店主は何か怪訝そうな顔をしている。そして、こう聞いてきた。

「こいつはお前の何なんだ?」

物乞いと一緒にいる観光客を見て、不審に思ったのだろう。私が物乞いに騙されているのではないかと、心配してくれている。

「彼は私の友人だよ、だから、ビリヤニを食べに来た」と、なんとか私の連れだということを伝えてみたが、店主は信じてくれない。どうしても、物乞いの彼を、店には入れたくないようにみえる。

「じゃあ、テイクアウトならOK?」かどうか聞くと、店主はようやく首を横に傾けてくれた。(インド人は首を横に振ることで、Yesを示す)

私はビリヤニを二つ購入し、再びバス停のベンチに腰掛けた。久しぶりの食事だったのか、彼は右手を使って、美味しそうにビリヤニを食べる。彼は本当に幸せそうに見えた。そんな彼の姿を見ていると、私の中に自然と笑顔が広がる。彼が幸せそうに食事をしていることが、何より嬉しかった。誰かと一緒に食事をする。その行為は、日本では当たり前で、何も感じていなかった。だが、インドという場所に来て、その行為が当たり前ではなく、''特別''なものだということに気づいた。一緒に同じものを食べ、笑い合う。人種も身分も関係ない。ただ彼と一緒にビリヤニを食べることが、こんなにも幸せで温かいものだとは、予想もしていなかった。

食事を終え、彼は言った。「君に幸運を祈る」と、穏やかな微笑みを浮かべて。私のように恵まれた環境で生きる者にとって、彼の言葉は重かった。彼のような人が、他人に幸運を祈る。それは私の心を震わせる経験だった。

自分の施しは、本当に彼らを救ったりはしないだろう。その場しのぎにしかならない。でも、彼が笑顔でご飯を食べている姿が忘れられない。自分の行いが、なぜだか誇らしいように思える。それが、自分の自己満足であっても。私は偽善者だと言われてもかまわない。

私はその後、物乞いに遭遇したら、「お金がない」と言わずに、なるべく、「何か食べたいものはあるか」と聞くようにしている。お金はあげられないかもしれないけれど、彼らにご飯を奢ることで、彼らを笑顔にできると思う。それが恵まれた土地で生きてきた私にできる、ささやかな行為であり、その行為が彼らに少しでも幸せをもたらしてくれれば嬉しい。そして、私はこれからも旅を続ける。彼らに少しでも幸せを与えられるような旅を。

マドゥライ・ミーナークシ寺院

いいなと思ったら応援しよう!

とますけ
よろしければ応援お願いします! いただいたチップはクリエイターとしての活動費に使わせていただきます!

この記事が参加している募集