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《創作型懸賞》に応募する愉しみ (家で★深読み)

《再勉生活》時代にアメリカに送られてきた「月刊公募ガイド」で見つけた懸賞論文に応募した話を書きました。

いわゆる《懸賞応募》には2種類あります。

ひとつは「クジ」的懸賞
缶ビールについているシールを集めて送り、生ビールサーバーを当てるたぐいです。
小学生の頃は、グリコのアーモンドチョコに入っているカードを1番から4番まで揃えて集め、「しゃべる人形」
《せっかち君》
《おとぼけ君》
をもらおうと躍起になっていました。
カードを10組集めるとあらかじめ記録された音声の再生のみ、30組集めると録音もできる彼らを手に入れることができるので、子供たちはとにかくむやみにアーモンドチョコを買って食べていたものです。
卑怯なことに、4番が出る確率が異常に低かった)

もうひとつが、「公募ガイド」に出ているような、小説、エッセイ、歌詞、短歌など、《創作物》を応募し、審査によって当選が決まるものです。

私はどちらのタイプの《懸賞》も好きでしたが、20代では後者、創作型の《懸賞》によく応募していました。

公募ガイドに載っているような、誰でも応募できる「賞」だけでなく、所属企業の「文化展」のようなものにも応募したし、企業グループが主催する「将来事業提案」のような《マジネタ》にも原稿を送っていました。

《創作型懸賞》に《応募》するたのしみはどこにあったのでしょうか?
それは、時系列で示す、以下の4場面です。

➀ 《目標》を定め、どういう創作物にするのか、《戦略を練る》たのしみ。
➁ 日程的な《計画》を立て、実際に《創作》を行う、充実した時間。
➂ 創作物を投稿後、結果発表までの、《期待》と《夢》に満ちた幸福感。
➃ 結果発表後の、酒を飲みながら審査者を《罵倒》する痛快。

(もちろん、賞をゲットできれば、➃は当選の歓び、となります)

つまり、ひと粒で4度美味しい
これに比べれば、《クジ型懸賞》で楽しめるのは➂だけになります。
外れても、それは単に不運なだけなので、➃の《罵倒》するたのしみすらない。

STEP➀の戦略立案は、受賞を狙う以上、最も重要であり、かつ愉しみ甲斐のある場面です。
一例を挙げます:
会社の文化展で、「ファミリー写真コンクール」がありました。
(うーむ。おそらく、家族全員で何かやってる写真か、子供のスナップ写真が集まるだろう)
と私は予想しました。
(しかし、子供の静止画を見て『可愛い!』と思うのは、親だけであーる。しかも、その顔に注目が集まり、お父さんに目が似てるだの、全然似てないのはおかしいわねだの、変な方向に評価がずれていくんじゃないか……)
そこで、
・子供の顔は出さない。
・「動き」が感じられる静止画を選ぶ。
・タイトルは写真の全部ではなく、一部、あるいは象徴的なモノにする。

という《戦略》を立てました。
1歳になっていた長女のアルバムをめくり、この写真(↓)に決めました。

社内企画 ファミリー写真大賞受賞作 「赤い靴」

(作戦は成功し、STEP➃で選者だった役員や労組幹部を罵倒せずに済みました。賞品は図書券1000円分ぐらい、だったかな)

STEP➁は苦しくもありますが、《成功》を疑うことなく、目標に向けてコトを進めて行くのは、誰にとっても充実した時間のはず。

STEP➂が一番幸福な期間です。結果的に運よく《受賞》したとしても、それ以上に《受賞》を待つ日々の方がはるかに幸福です。
《成功》は間違いなし『この賞を取ったら、こんな会社、辞めてやらあ』『授賞式には和服着流しで行って驚かせてやろう』などと、《夢》は膨らむばかりです。

さて、STEP➃。これも非常に重要なプロセスで、落選したからといって、自分に才能がない、努力が足りなかった、などと嘆いてはいけません。
ひとえに《選者》が悪いのです。奴らに見る目が無かった。あるいは、原稿が《選者》の手もとに届く前に、下読みの連中に落とされてしまったのかもしれない。ひどい話だ。どうかしてるんじゃないの。
私の場合、酒を呑みながら、実際に口に出して罵倒したものです。
ただ、ここで、STEP➀の《戦略》に問題があったかもしれない、とこの部分についてのみ《反省》してみることは、次の《挑戦》に向けて必要なことかもしれません。

創作型懸賞への応募に関して、
「宝くじと同じで、買わなきゃ当たらないよ」
と言う人がいます。
《とんでもない!》暴言です。
宝くじのような卑怯なシステムなんぞ、たとえであっても引き合いに出すんじゃない!
創作型懸賞への応募は、宝くじとは幸福の《質》が違うんだよ!

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