研磨。
生まれ
育ち
生きる中で
人は
さまざまに
かたちを
変えていく
坂道を
ころがる
石ころのように
川底を
流される
石ころのように
かたちを
変えていく
他の石に
あたり
削れ
泥を被り
色を
変え
人生を
ころがり
次第に
いびつに
変形していく
望んだかたちになど
ならない。
割れても
砕けても
思わぬものが
こびりついても
それでも
それが
今の
かたち
だから
削るでもなく
削られるでもなく
飾るでもなく
擦れるでもない
ただ
磨く。
人は よく
綺麗に磨いた
己の表面を見ることもせずに
自らを貶める
どんな歪な形でも
丹念に磨けば
表面は滑らかに
つややかに
光をはねかえす
無理にかたちを
変えようとしなくてもいい
ただ
磨けるだけ
磨いてみては
いかがだろうか
ヤスリがけは
目の粗いものから
順に
焦らず
丁寧に
自らの手で
数多のヤスリの中から
今のあなたに
合ったヤスリで
この店はあまり
オススメはしませんが
フォロー欄や
フォロワー欄
オススメや
タグから
よりどりみどりですので
どうぞ
ご自由に。
【蛇足】
私は幼い頃に自分の形が歪だと言うことに気づいて、そこから反対側へ向かおうとする人生を生きて来たので、レアケースだとは思います。多くの場合は、気がついたら、「あれ?こんなはずじゃ・・・」とか、それすらも思わないまま、もしかしたら自分の形も気にしないままかもしれません。
はい。とても抽象的な話をしています。
(抽象についてはいつかどこかで取り上げると思います。)
私の世代は「将来の夢は?」がつきまとっていた世代です。野球選手とか、とりあえず現実的かどうかも考えずにあげていた世代。今の子供世代は良くは知りませんが、youtuberとか、多少は現実的になっていると思います。これは明らかに教育のせいかとは思いますが(教育の話はきっとしないでしょう(笑))。
求める形、なりたいもの、理想があると必ずそれとの乖離が問題になります。他ならぬ、自分の中だけで。あるいは単純に周りと比べて、という原因もあるでしょう。周りはできているのに自分はできない。あるいは親との関係でも起こり得ます。ダメな時だけ叱られて、良くても褒められない。親の求める自分になれていない。
気がつくと、理想の自分や子供の頃の多少純粋だった自分から大分乖離している自分を目にします。挫折をして出会うこともあるでしょう。幼い頃からずっと隣にいることもあるかもしれません。
原因を論理的に探って、客観的に自分を見て、見直して、矯正して、そうやって理想に近くことができる場合もあるでしょう。でも、いくらそうやってもできない場合もきっとあるでしょう。LGBTやPTSD、簡単にアルファベットで表されてしまう問題がいかに深刻か。
自分を変える、あるいは、治す。
これをしようとしてもがいている人間はごまんといて、私もその一人。
私の場合は、体調不良が長く続いたせいで失った自分を取り戻したい、いや取り戻すという事象はあり得ないと分かっているので、なんとかまた積み上げたい。そうしないと「生きていけない」。そう思って色々試し、試行して、最終的には家族を切り離すという行為に至りました。
私が一番文章を読み書きしていたのは大学の頃。まぁ当たり前の話ですね。当時と同じだけの一人の時間は無理だとしても、最大限の孤独と一人の時間が必要であることに気づいてしまった。大したものを書いている訳ではありませんが、ここで書けていることがその証明でもあります。
ただし、こうやって自分の形をどうにかするのが、本当に必要なのかはわかりません。むしろ、私の形は歪になったまま大して変わってはいなくて、単純にここで出会う記事や人、言葉を受け取り、感じることで、今の形のまま磨かれて、それで前よりも光を反射できるようになっている、そんな状態かもしれないと思うのです。
若い時は、「何者かになる」ということは自分を突き動かす原動力になるでしょう。それは素敵なことです。でもそれが自分の首を締めるようになった時、重くのしかかるだけになってしまった時は、もはやきっとそれは必要ではない。
自分でそれをどう解釈しようが、あなたの周りの人間にとって、あるいはこれから出会う人にとって、重要なのは、まずあなたが笑っていることだと思うのです。あなたにとって、どうしようもないくらい切り離せない人、その人が笑っていてくれたら、どんなに楽か。
ここにいる多くの人は「表現すること」を目的としています。
その場合に限って言えば、「表現することやできることに悩む必要はなく」、「表現できることを、どう表現するか」をまず考えるだけで良いし、むしろその方が、その人の良さが出るはず。「誰か」になろうとするのではなく、「自分」を出す。
「どう出せば良いの?」
自分と向き合うことは悪いことではありませんが、周りが見えなくなるのは良いことではありません(あぁ、ブーメラン痛い)。
いえ、お手本はここ(この記事じゃなくてね)に沢山あります。表現の仕方なんて十人十色。自分の方法で良いはずですが、どうしたって、綺麗な表現や素敵な記事は目につきます。
読んで、書いて、悩んで、書いて。
最初は誰だって人真似です。最初は板書だったでしょう?
どれだけ真似たって、全く同じにはならない。でもうまくはなる。
形はそうは変えられない。でも磨くことはできる(かもしれない)。そして多分磨く方が簡単。今できることを少しずつ磨く。歪でも。私が好きなnoterさんは(私の勝手な印象ですが)そういうことを実践している、それが言葉に現れている人が多い。もちろん、個人的には鬱屈とした悩みや、苦しみの吐露も嫌いではありません。感じるところが多いですから。大切な言葉も多い。
でも少しでも多くの人が、多くの時間、楽に、笑っていられたら良いなと思うのです。はい。綺麗事です。でも自分一人で思っているだけなので、ただの「きれいなこと」です。
できないものは、とりあえずすぐにはできない。
でも「こうするとできるよ」と言ってくるものが多すぎる(ここにも)。
(そういう記事よりただ悩んでいるだけの記事の方がどれだけ素敵か)
どうやったって、できないことはある。
そして、できることもある(当たり前でしょって思ったでしょ?ほら)。
手持ちの武器でなんとかするしかない。とりあえず、磨いてみるしかない。
戦うためでも良いけれど、許すためでも、笑うためでも良い。
きっと
笑えた方が良い。
そんなお話。
※なんか、酷く真面目な感じになってしまったので、蛇足も無料公開にしておきます。普段の有料蛇足はもう少しライトに書いていますので、悪しからず(いいのか?それで)。
要るかなぁ、この蛇足・・・
人による 蛇足がなくても 人選ぶ(あ、一句できた)
では。