【創作短編小説】アシダカグモと私(7,038文字)
朝、目がさめる。
月曜日。
誰もが憂鬱になれる一週間の始まりを告げる朝。
昨夜は少しでも嫌な現実から目を背けるため、深夜まで動画配信サイトでホラーゲーム実況を観ながらビールを飲んでいた。
イタタタッ…
昨夜は少し飲み過ぎたかな?
頭痛のする頭を押さえながら、私はベッドから体を起こす。
顔を洗うため洗面所に向かおうと、ベッド脇に置いてある室内スリッパを履こうとした時…
ヤツはいた。
床に這いつくばるクモ。
節足動物のクモ。
しかも普通のクモとは違い、サビ色の体に異常に長い脚を持ち、その全長は子供の手の平ほどにも匹敵する異形。
一部では「軍曹」とも呼ばれている特殊なクモ。
アシダカグモ。
ひぇっ…
年甲斐もなく大声で叫びそうになった私はグッと堪える。
危ない危ない。
いくら虫が苦手だとしても、私ももういい歳なのだ。
流石に虫の一匹で取り乱す私ではないのだ。
「ソレ」はジッと私を見つめ動こうとする気配がない。
しかし私は知っている。
こういった手合いのモノは、ヘタに刺激を与えた瞬間に動き出すことを。
死んでるかな?っと思い手を伸ばした瞬間、他の生き物を威嚇するように暴れだすことを。
私はアシダカグモを刺激しないようにソッと室内スリッパを履こうとして…
「やぁ。」
ひぇっ!
私は年甲斐もなく大声で叫んでしまった。
アシダカグモが喋った!?
いやいや、そんなハズはない。
虫が喋るハズはないのだ。
どうやら昨夜は飲み過ぎたらしい。
頭痛はするし幻聴は聞こえるし、アルコールがまだ私の脳ミソを浸しているのだろう。
私は痛む頭を押さえながら立ち上がる。
「昨夜はちょいと飲み過ぎだったんじゃない?」
ひぇっ!やっぱり喋った!
しかもちょっと気遣われてしまった!
なんなのだ、このクモは!?
気が動転した私は右手を上げる。
アシダカグモは左前足(左手?)を上げる。
私は左を向く。
アシダカグモは右を向く。
や、やぁ…。
「やぁ。」
やっぱり喋った!
しかも会話が成立している!
これはいったい…?
「さぁ?」
なんで喋れるの?
「さぁ?」
さぁっ、て…。
私はますます混乱する。
ただでさえ不可思議な状況なのに、寝不足と二日酔い気味の頭では考えが全くまとまらない。
「まったく…、昨夜遅くまでガッ○マンのホラーゲーム実況を観ていたから、そんなに寝不足なんだよ。」
なぜコイツは喋れるし、ユー○ューバー事情に詳しいんだ。
ちょっと落ち着け。
落ち着け、私。
…よし。
確か向こうの棚に殺虫剤があったハズ。
「こらこら、落ち着いて。その右手のキン○ョールをすぐにペッして。」
どうして○ンチョールを知っているのだろうか。
言い方もどこかお婆ちゃん臭いし。
私は殺虫剤を吹き掛けるため、ノズルをアシダカグモに向ける。
すると危険を察知したアシダカグモは、一目散とタンスの裏へと隠れてしまった。
「キミってヤツはとんでもないなー。それよりも時計をご覧下さい。」
ちっ、逃したか。それよりも時計?
アシダカグモに言われるがまま、時計に視線を向ける私。
そこには始業開始の時刻、9時を刻む時計があった。
やってしまった!
夢のような出来事から、地獄のような現実へと引き戻された私。
喋るクモなどに時間を割いている場合ではなかったのだ。
大急ぎで出勤の準備を行い、玄関を飛び出す。
その際タンスの裏から「行ってらっしゃーい。」と聞こえてきたことにイラッとした。
はぁ…。
今日は散々だった…。
会社には遅刻するし、上司にはこっ酷く叱られるし、好きなアイドルの熱愛報道が報じられるし…。
私は帰宅途中にあるスーパーに寄り、半額弁当とビールを買い、切れかかった街灯の明かりを頼りにトボトボと道を歩いていた。
そして自宅アパートに到着し、玄関の扉に鍵を挿し込む。
今日はビールでも飲んで早く寝よう、などと考えながら真っ暗な部屋に光を灯す。
「おかえりー。」
忘れていた…。
殺風景な部屋の中央に、まるでここの家主だといわんばかりに鎮座する害虫。
誰だよ、アシダカグモは益虫だと言ったやつは。
只今をもって私の中で害虫ランキング1位に認定された「ソレ」は、「やっぱり夜行性だから暗いと元気になっちゃうんだよねー。」などとほざきながら、右に左にと床を這いずり回る。
アシダカグモに構う元気も無い私は、半ば無視をする形で一人用コタツテーブルに腰掛け、半額弁当とビールを取り出した。
テレビをつけ、くだらないバラエティ番組を観ながら晩酌を始める。
くぁー、ビールが体に染みるぜ。
「ちょっと無視しないでよ。虫だけに。ププッ。」
ビックリするほどくだらない事を言いながらテーブルに上がってくるアシダカグモ。
ちょっとあなたの容姿は食欲を減退させるので、テーブルに上がってこないで頂けますか?
私はフッ!と怒気とアルコール混じりの息を吹きかけアシダカグモをテーブルから下ろす。
「あーれー。」
テーブルの向こう側へフェードアウトしていくアシダカグモ。
私は好物の肉団子に箸を伸ばし、ビールで胃の中に流し込んだ。
「どうしたのさ、そんなにイライラして。」
視界の端のほう、床の上から必死に抗議してくるアシダカグモ。
「会社でなにがあったか知らないけど、そんなにすぐにイライラしていると何事も上手くいかないよ?」
虫に説教される私。
ガサッ。
ひぇっ!
その時、アシダカグモのやや後ろから黒いアイツが出てきた。
Gだ。ゴキブリだ。
私の家はどうなってしまったのだ?
まるで昆虫博物館ではないか。
「第一に朝のアレはなんだい?殺虫剤なんか持ち出して。キミは他人にもすぐに危害をくわえるの…」
ガブッ!
一丁前に私に道徳を説いていたアシダカグモが、話を中断し突然背後のゴキブリに襲いかかる。
最初は必死に抵抗していたゴキブリも徐々に動かなくなり、最後にはその短い生涯に幕を閉じる。
…
なにやら気不味い空気が辺りを包み込む。
どうやら持って生まれた本能には抗えなかったらしい。
モジモジと必死に言い訳を考えているアシダカグモを尻目に、私はビールをグビグビ飲む。
「危害を加えるにしても、時と場所を考えてだね…」
話の流れが少し変わった気がする。
「知っているかい?アシダカグモってゴキブリを食べる益虫って言われているんだよ?やったね。」
害虫がなにか話しているが、私には関係のないことだ。
テレビ番組の内容がちょうど好きなアイドルの熱愛報道になったところで、私はテレビを消す。
少しの白米を残し、弁当容器をゴミ箱に捨てる。
今日は全てに対して疲れてしまった。
風呂にも入らずベッド入る私。
「お風呂はいいのかい?就寝前の入浴は睡眠の質を向上させるんだよ?」
私はもう疲れたのだ。
寝て起きたら嫌な現実が全て夢であることを願うように。
私はアルコールが誘うがまま現実から意識を手放すのだった。
「おやすみー。」
遠くでかすかにガサガサ聞こえる。
朝、目がさめる。
日の光が窓から挿し込み、外から小鳥たちのさえずりが聞こえる。
なんて清々しい朝なんだろう。
顔を洗うため洗面所に向かおうと、ベッド脇に置いてある室内スリッパを履こうとした時…
「おはようー。」
ひぇっ…
年甲斐もなく大声で叫びそうになった私はグッと堪える。
なんというデジャヴ。
全然夢ではない、まごうことなきリアル。
「キミってイビキが凄いね。ボクも寝たかったのに寝れなかったよ。」
うるせーよ。夜行性がなに言ってるんだよ。
私はシャワーを浴びるために浴室に入る。
「朝のシャワーは熱めの温度にすると、血行が良くなって目がさめやすいんだよ。」
浴室の外から声が聞こえたので、ふと扉の方に目を向けてしまう。
するとボカシ加工がしてある扉のガラスの向こう側に、ベタッとアシダカグモが張り付いていた。
ひぇっ!
シャワー関係なく十分に目がさめたわ。
私はデコピンの要領でガラス越しのアシダカグモに刺激を加える。
「あーれー。」
視界から害虫が消え、私の朝の一時は取り戻されたのだった。
その後風呂から上がった私は、トーストとサラダとコーヒーというベタな朝食を食べながらテレビをつけ、朝のニュースを観る。
またもアイドルの熱愛報道が報じられるが、昨日ほどのダメージは受けなかった。
なるほど、人間寝るとストレスが軽減するというのはあながち間違いではないらしい。
「せっかくのサラダなのにドレッシングをかけ過ぎると体に良くないよ。」
テーブルの上でなにやら騒いでいる虫。
誰だよ、寝るとストレス軽減なんて言ったヤツ。
私のストレスは現在、逆バンジー並みに急上昇だよ。
私はフッ!と怒気とカフェインの混じった息を吹きかけアシダカグモをテーブルから下ろす。
「あーれー。」
私はさっさと支度を整え、玄関の扉を開ける。
「行ってらしゃーい。」
私はイラッとしながら玄関の扉を閉めるのだった。
くっそー、クソ上司めー。
私はまたもや半額弁当とビールを片手に、切れかかった街灯に照らされた夜道をトボトボと歩く。
今日は会社で目立ったミスもしていなかったのに、上司にネチネチと嫌味を言われ残業までさせられた。
なんだよ、態度が顔に出てるって。
私は生まれつきこういう顔だよ。
イライラしながら玄関に鍵を挿し込み扉を開ける。
「おかえりー。」
私の目つきが一段と鋭くなった。
私は昨日同様、一人用コタツテーブルに半額弁当とビールを置き晩酌を始める。
くぁー、ビールが染みるぜー。
今日はゲーム実況でも観ようかな。
私はチャンネル登録している配信者の動画を開く。
「あー、弟○だー。兄○とのやり取りは面白いよねー。」
だからなぜ○ーチューバー事情に詳しいのだ。
怒る気力も失せた私は動画に食い入るアシダカグモをそのまま放っておくことにした。
どうやらアシダカグモはFPSゲームが好きらしく、銃の射撃音に対して体を微振動させていた。
キショいな。
「そこだー、いけー。」
興奮したアシダカグモは画面に食い入るように、というか画面に張り付いて観ていた。
画面が見えねーよ。
しかしその時ふと気付く。
あれだけ毛嫌いしていたアシダカグモの見た目なのに、今はあまり嫌悪感を感じないことに。
人間、慣れというのは恐ろしいね。
私は空になった弁当容器をゴミ箱に捨て、動画に食い入るアシダカグモをそのままに風呂に入ることにした。
シャワーを浴びながら今日一日の疲れとストレスを洗い流していると、
「えー、おほん。」
扉の外からまた声が聞こえてきた。
「これは勝手な独り言だけどさ、キミはどうやら他の人より目つきが少々キツイらしい。」
コイツはいったいなにを言っているんだ?
「昨夜のバラエティ番組に出てきた芸人さんたちみたいにさ、ぎこちなくても笑う努力はしてもいいんじゃないかな?」
なんだよ、オマエは私の母かよ。
二日に渡り虫に説教…いや、これは説教じゃないな。
他愛のない会話をしているだけだ。
アシダカグモと私。
私、アシダカグモと会話してるんだぜ?
そう友達に話すと私は精神病院に放り込まれるのかしら?
そんなことをボヤッと考えていると、少しだけ目尻か下がった気がする。
ふと浴室の扉に目を向けるとボカシ加工のガラスの向こうにアシダカグモのシルエットが…
ひぇっ!
やはり怖いものは怖いのだ。
朝、目がさめる。
窓から挿し込む朝日。
外から聞こえる小鳥たちのさえずり。
今日も爽やかでろくでもない一日の始まりである。
「おはようー。」
あぁ、おはよう。
顔を洗い目をさましてから、トーストとサラダとコーヒーの変わり映えのしない朝食三点セットを用意する。
朝のニュースをボーッ観ながら、昨日よりややドレッシングの量を減らしたサラダを頬張る。
テレビのBGMに合わせてテーブルの上で小刻みに体を揺らしているアシダカグモにイラッとし、私はフッ!とカフェインの含まれた息を吹きかける。
「あーれー。」
テーブルの向こう側へフェードアウトしていくアシダカグモ。
「なんだよ、もう。」と言いながらテーブルの上の定位置に戻ってくるアシダカグモ。
またもやテレビのBGMに合わせて体を小刻みに揺らす。
私は再びフッ!と息を吹きかけてやる。
しかし今度はアシダカグモは重心を低くし、必死に飛ばされまいと抵抗をする。
無事強風に打ち勝ったアシダカグモはこちらに顔を向け胸を張る。
初めて見たよ、虫のドヤ顔。
私は支度を整えながら、なにかご飯になるものを置いていこうかアシダカグモに尋ねる。
「ご飯は自分で調達するから大丈夫だよ。昨日も三匹捕まえたからね。自宅警備員もラクじゃないよ。」
なにが三匹とは聞かないでおこう。
私は自宅警備員に家内の安全をお願いしつつ、玄関の扉を開ける。
「行ってらっしゃーい。」
…行ってきます。
夕焼けに染まった道を私は歩いていた。
昨日とは違い、私は上機嫌だ。
なんだよなんだよ、クソ上司。
こっちがいつもより少しだけニコニコしていただけで、「仕事頑張ってるな。」って定時で帰してくれたよ。
同僚からも「笑顔が気持ち悪いけど、なにか良いことでもあった?笑顔が気持ち悪いけど。」と言われた。
なるほど、私は今まで少しだけ目つきがキツかったのかもしれない。
今まで少しだけ無愛想だったのかもしれない。
それもこれも…
そんなことを考えながら、私はまだ半額になっていなかった弁当とビール、そしてカブトムシのエサ用ゼリーを買い家に帰っていた。
カブトムシのエサ用ゼリーは別にお礼とかお土産とかそういう物ではない。
ただ目に入ったから、なんとなく買っただけなのだ。
それにクモがゼリーを食べるとか聞いたことないし。
食べなかったら食べなかったで、カブトムシと間違えたなどと言ってからかってやろう。
そうだ、このゼリーはイタズラ用に買ってやっただけなのだ。
そう自分に息巻き、家へとそそくさと帰るのだった。
そんな調子で帰っていると、自宅アパートが近づくにつれ何だか騒がしくなっていることに気がついた。
なんだろう?
自宅アパート前にパトカーが数台停まっている。
「あんた!今帰ってきたのかい!」
隣に住んでるオバちゃんだ。
「どうやらあんたの部屋に空き巣が入ったらしくて、大騒ぎになっているんだよ!」
あちゃー、空き巣かー。
確かに家を留守にすることが多かったからなー。
買い集めたアイドルの写真集やグッズたちは大丈夫だろうか?
「そんで空き巣が幽霊が出たって騒ぐもんだから、警察を呼んで今にいたるんだよ!」
幽霊だって?なにをバカバカしい…
その時、私はハッとなり自宅に向かおうとする。
警察に「現場だから。」と止められてしまったが、隣のオバちゃんの助けもあり、すんなりと部屋の中に入ることができた。
そこは空き巣が入られたにしては全く何も荒らされていないキレイ過ぎる現場。
コレクションのアイドル写真集やグッズたちはおろか、引き出し一つも開けられていない今朝と全然変わり映えのしない部屋だった。
ただ一つ。
床にこびりついた虫の死骸以外は。
空き巣に踏み潰されたのであろう。
「ソレ」はもうピクリとも動かなかった。
もちろん喋ることなんて、もはやないのだ…。
警察に被害について聞かれたが、特に無くなった物もなさそうだったので気が付いたら連絡するという形にして早々に帰ってもらった。
一人になった室内。
床に張り付く虫の死骸を包み込むようにして拾い上げる。
以前だったら死んだ虫でさえ素手で掴むことができなかったのに、凄い進歩である。
人間、慣れるものである。
家を出て少し歩いたところにある道の端。
土の部分を掘り起こしアシダカグモを埋めてやる。
そうだ、買ってきたカブトムシのエサ用ゼリーも一緒に埋めてやろう。
そう考えた私はゼリーの中身だけを掘り起こした穴の中に入れる。
そして土を被せて埋める。
…
不思議と涙は出なかった。
それもそうだ、ただ家に出てきた虫が死んだだけなのだ。
空き巣に入られた事実の方がよっぽどショックなはずなのだ。
…
まったく、なにが自宅警備員だ。
私の家に盗まれて困るものなど、なに一つも無いというのに。
私は自宅に帰りシャワーを浴びる。
静かな浴室。
以前通りになった、ごく普通の浴室。
ふと浴室の扉のボカシ加工のガラスに目をやる。
そう、当然そこには誰もいなかった。
静かな室内。
食欲の失せた私は、早々にベッドに入り込み寝ることにした。
そうだ、寝て全てを忘れてしまおう。
そして愛想の良くなった私は、明日からも会社で上手にやっていくのだ。
そう考え、目を閉じる。
…
……
…なんだか寝付けれない。
私はなんとなく携帯電話を触る。
そしてなんとなくインターネットで検索をする。
『アシダカグモ』
ひぇっ!
そこには気持ちの悪いアシダカグモの数々の写真が張り出されていた。
私は我慢しながらアシダカグモの生態に関するページを開く。
『アシダカグモは非常に臆病な性格です。人間の気配があるとすぐに隠れてしまいます。』
嘘だろ?
アイツは向こうから近寄ってきたのに?
私はニヤニヤしながらページを読み進めていく。
『アシダカグモは害虫となるゴキブリを食べてくれるため、益虫と呼ばれています。』
そうだよ、アンタは自分で言っていた通り益虫だったよ。
私は携帯電話の画面を閉じ、ソッと置いた。
明日から始まるいつも通りの日常に備え、寝ることにしたのだ。
あぁ、今度はなんだか寝れそうだよ。
朝、目がさめる。
窓から挿し込む朝日。
外から聞こえる小鳥たちのさえずり。
今日も爽やかでろくでもない一日の始まりである。
顔を洗うため洗面所に向かおうと、ベッド脇に置いてある室内スリッパを履こうとした時…
「おはようございます!昨日まで三番目の姉がお世話になりました!今日からはボク、五番目の妹がお世話になります!」
ひぇ!
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