「休む」ってなんだ?って休みの日に考えちゃった話。
2021年5月5日。
しがない社会人(?)になって二度目のゴールデンウイークを謳歌している。
朝から晩まで、絵を書いたり、お三味線の練習をしたり、アニメ見たり、ちょっとだけ本を読んだり。中でも、「創作力強化合宿@おうち」と称し、ものづくりに多くの時間を割いている。
そんなときに、ふと思った。
「休みの日なのに私は疲れている…!」
単にPC画面に向かって作業しているからなのか、なんだか異様に疲れているのだ。もちろん、ものを作るのが好きだから作ってるのだけど。
休みの日なのに、休めていない。というか、休みなのに「強化合宿」ってどういうこっちゃ。休んでないじゃん。休んでるけど。
って、休みってなんなんだ?
ここ最近の休みの過ごし方
こう休みの日が続くから余計なことを考えてしまうのではなかろうか。ということで、連休じゃない週末の過ごし方を振り返ってみる。
この頃は、休日の過ごし方が大分ルーティーン化している。ゆっくり起きて、部屋の掃除をして、お三味線の練習をして、食料品や日用品の買い出しに行って、平日を乗り切る兵糧(常備菜)を作って、お風呂に入って寝る。以上。
要するに、生命維持のためのメンテナンスというところだろうか。「食べること、住まうことをきちんとする日」という感じだ。
労働基準法にも「労働条件は、労働者が人たるに値する生活を営むための必要を充たすべきものでなければならない。」とあるから、私はそうなって然るべき過ごし方をしている。
公私の境目
もう一つ気になったのは、「強化合宿」と称して、「何か作らなくては」という使命感のもと過ごしていること。好きだから気の向くままに、でもあるけれど、それだけの気持ちではないのは確かなのである。
これは「サボってはならぬ、勤勉であれ」という生まれ持った性分のせいだ。いや、それは表向きの話で、本当はゆっくり寝てしまうし、延々動画見てるし、SNSいじってる。でも、そんな中でも何かしら勉強になりそうなもの、仕事に役立ちそうなものをチョイスしてしまう自分がいる。何ひとつ生産的なことができなかった休日はとんでもない絶望感に襲われるので逆につらい。
要するに、いくら休日だと言っても全く仕事、すなわち公から切り離された別世界に行けないのだ。
だから、QOLがどうたらとか、働き方改革(もう古いか)がどうたらとか言われると、「私って不自由で不幸な人間なのかも!?」と、なんだか悲しい気持ちになってしまう。「平日と休日の境目がない」という生き方もあるけれど、私そんなにできた人間じゃないはずだもの。
…いや待て、根本的に、平日に対するフラストレーションがそんなにないんじゃないだろうか。
今の私は「好きなわけでもない仕事をやらされている」状態ではない上に(ありがたいことです)、新型コロナウイルスの唯一の恩恵ともいえる「テレワーク」のおかげで通勤時間に自由を奪われることもない。そもそも会社まで自転車で行けるので、電車の時間に縛られて行動するわけでもない。ストレスフルんs日常、でhsないのだ。
勤勉ではないけれど、仕事から完全に逃れる必要性もない。じゃあ、ここは問題じゃないんだな。ありがたや。
しかし、じゃあ、なんでこんなに疲れるんだろうか。
もしこんな世の中じゃなかったら
そもそも、もし緊急事態宣言が出るほどの状況じゃなかったら私はどうしていたのだろうか。
実は、このゴールデンウイークで3泊4日の旅に出るつもりだった。その名も、「旧東海道ただひたすら歩いて静岡突入の旅」。
わが身を守るためにも、他人を守るためにも、宿泊場所とコンビニ以外はどこにも行かない。観光はしない。品川宿をスタートしてただひたすら歩き、箱根の関所を越える。筋肉痛覚悟で、ただひたすらに歩みを止めず、静岡県は三島宿を目指すという旅程だ。
って、それめっちゃ疲れるやつやん!!!
結論、休みの日は「疲れる日」だった
そうだった、忘れてた。休みの日って疲れる日だったじゃないか。
小さかったころを振り返っても、キャンプに行ったりスキーに行ったりしてたし、中高生の頃はほぼ全部部活だったにしても、大学時代の授業がない日はどれほど出歩いたことか。
思い返せば、休みの日って単に「日常の多くを占める仕事がない」だけで、その限られた時間でいかに非日常を楽しみ、ワクワクするかが勝負だった。だからわざわざ「おうち時間」なんて称して普通以上の何かを求めていたんだった。
そんなわけで、今疲れているのはとても健全で良いことだ、と思った私なのだった。お絵描きがんばろう。おしまい。
ゴールデンウィーク最後の作品「千葉といえば」