石橋→しゃっきょう!と読むのだ
「いしばし」と読みますよね。なぜか能ではシャッキョウと読むのだ。音読みならセキキョウでしょう?そんな変わった読み方の能の演目は他にも、弱法師と書いて、音読みが多いからジャクホウシ?と思うじゃないですか。ところがここではヨロボウシ。訓読みと見せかけて弱をヨワと読まずにヨロと読む。ヨロヨロするからかなあ。。。
まあ、いいです。わかりません。。
今日は石橋です。
文殊菩薩の住む清涼山(中国山西省にある五台山の異称。中国四大霊場の一つ。)が今回の舞台です。
【前半】
愛する人を失い、出家した大江定基は寂昭法師と名を改め、唐に向かい、いろんなところを参拝して回りました。ある時、清涼山の麓の石橋に辿り着き、これがあの有名な石橋かもしれない、誰かよく知っている人に詳しく聞いてから渡ろうと待っています。そこへ童子がやってきてまさにこれが有名な石橋だ、そして向こう側は文殊菩薩の住む浄土だと言います。
生死を仏の御心に任せ渡ろうとする寂昭法師でしたが、童子はそんな簡単に渡れるような橋ではないと引き留めます。この滝は高い雲の上から数千丈(一丈は成人男性の背の高さ)から落ち、滝壺には霧がかかって何も見えない。下は地獄かもしれない。この石橋は自然にできたもので幅も一尺たらず(明治時代に決められた尺30㎝ほどより狭く、18㎝ほどだったのではと思われます。)苔が生えていて足も滑り、相当の修行を積んだ者でないと渡ることはできないと言うのです。
しかし、向こう側は素晴らしい音楽と共に美しい花が絶え間なく降る浄土だから、待っていれば奇跡が起きて菩薩様が現れることもあるでしょうと言って消えてしまいました。
【後半】
文殊菩薩の使いとして獅子が現れ獅子の舞を演じます。
牡丹の花が咲き匂い、黄金のおしべが吉兆(瑞兆)を示します。獅子は牡丹に戯れ遊び、百獣の王にふさわしい勢いで舞い納めます。
おしまい。
紅白の獅子が頭を振る皆様よくご存知のヘドバンの演目です。めでたい!
最近はほとんど前半は行われることなく半能として後半だけ行われることが多いそうです。
菩薩はいつ現れたの?と思います?思いますよね?
童子って子供のことではあるのですが、同時に(うまいこと言おうと思ってません)仏の王子、つまり菩薩のことでもあるんです。
シラーん顔して、菩薩が話していた可能性がある。面白いですねえ。
ここでおじいさんとか、里女とかじゃないところがねーーー!そういうとこだなーーー能って。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?