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理想の城壁と割れた器

 胸の奥がザワザワと落ち着かない。何故だ、何故、無視するのだ。心の中で誰かが叫んでいる。手に入っていいはずだ。何故、返事をしないのだ。気持ちが悪い奴だと思われているのか、面白くないやつだと思われているのか、何となく、もう会いたくないと思われているのか、何なのかはっきりしてほしい。
 心の中の誰かは、はっきりと、こう言っている。「もっと私を見るべきだ、私の期待に応えるべきなのだ、私はもっと愛されていいはずなのだ。あなた方は、私と一緒にいるべきなのだ。他の誰でもない私を見るべきなのだ」
 心の中の誰かが、大声で叫んでいるのを感じる。情け、愛情、欲情、そうした言葉はすべて味方のはず。既にそうした世界観が出来上がっている「あなたが私に愛情を注ぐ世界が、私は好きで、そうあるべきなのだ」という強烈な自己愛が支配している世界がある。その世界の中心で、「愛されることは当然であり、好かれること、好感を持たれることは、常である」と心の中の誰かが目を見開いて一人で叫んでいる。

 この世界観には、大きな城壁がある。それは、過大な自己評価と、誇大な妄想によって作られた、理想の城壁である。そして、誰かがその城壁の中で、ずっと叫んでいる。その「誰か」とは、まさに自分である。
 この城壁は、現実と自己を隔てている。そのおかげで、現実がそのまま自己に認識されることはなく、「私は愛される」という言葉を否定しない事柄だけが、城壁の門を通過でき、自己に認識される。この城壁の外では、条件に合わない現実が跳ね返され、強い流れとなって、渦巻いている。
 城壁の中には、門をくぐった現実があるが、どうしても欲しい現実がない。それは、「あなたが私に愛情を注ぐ世界が、私は好きで、そうあるべき。」という現実。それがどこにあるかといえば、城壁の外で、跳ね返された現実が流れを強くして渦巻いている「渦」が、自分が欲している現実なのだ。
 それがなぜ城壁の門をくぐらないのかを苦しみ、さらにその渦を渇望するようになる。決して、その現実のための門を開けよう、城壁を下げよう、という思いには至らない。そしてジワジワと感じ始める。自分に愛情が注がれないことへの失望、その愛情を他の誰かが味わうことの羨望、その愛情で満たされている誰かへの嫉妬。
 全ては自分が愛されないことへの落胆。ここで語られるのは自分のみ。その自分は城壁の外にある渦に手を触れる勇気はない。逆に、現実から手を伸ばしてもらい、理想の門を通過してもらいたいと期待している。「私はあなた方に好かれて良い人間のはずだ」と理想の城壁の内側から、渦に向かって叫んでいる。渦はもっと優しく流れてくれるはずだ、と。現実は、城壁の中にある妄想に倣って、優しく私に愛情を注いでくれるものなのだ、と。

 一分、一秒、そのことを考えないことはない。「こないだは、もっと近くにいたじゃないか、なぜ、今は遠く手に届かない場所にいるのだ」「楽しく過ごせたはずだ、また一緒に過ごせるはずだ。」
 渦は見ていれば見ているほど強力で大きくなっているように見え、目を逸らすと、渦がなくなってしまう気がする。見ていれば見ているほど、欲求が高まる。しかし、城壁の外に手を伸ばしたことがないので、どうやってそれを掴めばよいかわからない。いつも、その渦が流れ込んでくれたからだ。
 その渦を見ると、さらに妄想を生み、その妄想は、さらに大きな理想の城壁を高く厚く作るので、渦から自分はどんどん遠ざける。妄想をするごとに、不安、嫉妬、羨望で自己憐憫に陥り、身動きが取れない。思考が停止し、今度は似た記憶を城壁の中に蘇らせるが、それは現在ではない思い出なので、そこから、また妄想を生み、また理想という壁を厚く高くして、自分を現実から遠ざける。
 妄想で理想を作り上げ、現実に対して大きな城壁を築き、その中心で叫んでいる誰か、それは自分である。自分で作った城壁のせいで、現実を認識しない自己。「なんてかわいそうなんだ、なんて報われないんだ」自己はそう叫び、嘆くが妄想を止め、理想という壁を崩そうとはしない。どんどんと壁を高く厚くするのみ。

 「愛情を少しだけで良い、そこで頷くだけでよい、城壁の内側からそれを見れるだけでもいい。」「ハッキリと現実を伝えてくれさえすれば、わかるように伝えてくれれば、それでいい」そう願うようになる。しかし、それが叶っても、安心は得られない。満たされることはない。
 実際には、城壁の中の、理想の城壁を通過した現実を貯めるための器は、すでに割れていて底が抜けている。たとえ、「やはり、私は評価されているのだ」「愛情を注がれるのだ、その自分が好きなのだ」という現実が手に入っても、割れた器に留めることもできないので、確認もできない、味わうこともできない。すでに器は割れている。
 昔はここに、理想の現実が満たされていたのだ。誰かの愛情によって満たされたその器があることで、自己愛は完成していたはずなのだ。その頃と今、何が違うのだろう。城壁の外側にある現実はどんどんと変わっているが、それを理解することなく、割れた器を眺めている。割れた器、城壁、誇大妄想、過大評価、すべては自分であり、自分をいつまでも見ている。なぜだ、何故こうなったのだ、と。

 いつになったら、その器を直そうとするのだろう。いつになったら、すぐ隣に静かに大らかに流れている安心という川から器に水を張らないのだろうか。割れた器と、強烈に感情を揺さぶる渦の二つに翻弄されて生きることを何故選ぶのだろうか。
 自分ばかり見ていると、その流れに気が付かない。現実に一歩でて、城壁の高さと厚さ、その虚しさを自己が認識するまで、気が付くことはないだろう。


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