
「知性」とは
「知性」とは?という質問を受けたので考えた。
とっさに返答した時は、どうも相手は納得していないようだったので、それから2-3日考えた。ちょっと疲れたのでアウトプットをする。多分、4-5種類ぐらいの回答が思いついた。
一人称における「知性」
一人称における「知性」は、ひたすらインプットをすることである。そして、考える。腹落ちするまで考える。根を詰める必要はない。20年後にポンと納得することもある。
二人称における「知性」
二人称における「知性」は、相手に納得してもらうことである。私の言葉で表現すれば「訳分からんこと言ってるのに、なんか分かる」と相手が思う状態である。もしくは自分がそう思うことである。
ここにはどうも、相手への尊敬や権威性が内包している気がしている。
三人称における「知性」
思いついたはずだが忘れた。あと、二人称と三人称の間の解釈も思いついたが忘れた。
いま思いついたのは、世間を知性で見てはいないが、概念としての世間や大衆を「流されやすい」と思っている節はある。知性のある大衆とは何か?を問えば、共通したモノの見方が四半世紀は共有されていないと成立が難しいのではないか?とも思う。
昨今のように、共通認識の柱が脆弱になっていると、「それはそれ、これはこれ」で片付くし、もはや一般常識すら怪しい。認知度や昔の余韻でギリギリ体裁を持っているのかもしれない。
乱暴な回答
人によって違うんだから、知らんがな。
しきい値の設定
「知性」の有る無しをデジタルのようにオンオフで考えるか、1から100程度までの目盛りで捉えるかによって話は変わってくる。
目盛りがあると日本語表現では、1でも知性があると言えるし、もちろん100でも知性があるという見え方ができる。
そもそも他人を知性の有る無しで見ていない
質問を受けたときに悩んだのは、どうも自分は他人を知性のあるなしで評価はしていないということである。
世に「知の巨人」と呼ばれるひとはいるが、私は彼らの言動や書籍を読む際に知性を感じているか?と問われるとかなり怪しい。私の場合、はっきり言えるのは彼らの話のリズムを聞いているのであって、もはや内容すらボヤッと捉えている気がする。
そして、リズムが心地よいので繰り返し触れているだけである。なので、一言で表現すると、一人称の「知性」に近い。
結論
知性とは
インプットをしつづける。
納得するまで考える。
行動する。
こんなもんかと思う。