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こころの声を … すこしでも聴きたいから

○ こころの声を … すこしでも聴きたいから


来談者中心療法を創始したカール・ロジャーズ氏。

ご存知の方はとても多いと思いますが、その共同研究者のユージン・T・ジェンドリンは、体験過程を重視する「フォーカシング」を創始しました。


「フォーカシング」とは、こころの奥からの声や、体感覚が発する声にならない声に耳を傾けていくための進め方で、「静かで穏やかな自分探しの方法。自分の"感じ"に触れる方法」です。(「」内は、下記の書籍より抜粋。)

その「フォーカシング」を、最初に学ぶために良い書籍は何でしょうかと聞かれたとき、私は下記をご紹介することがあります。

私自身は複数の先生から傾聴やカウンセリング、コーチングなどを学ばせて来ていただいている最中ですが、そのうちのお一人が同書籍を紹介しているのを目にして買ってみたら、おぉ!分かりやすいと思えたものです。

ジェンドリンの一番弟子の一人、アン・ワイザー・コーネルによる書籍、(PR)『やさしいフォーカシング』というものがあります。

(アン・ワイザー・コーネル(著) 大沢 美枝子/日笠 摩子 (訳) 諸富祥彦(解説))

(著者は、世界一のフォーカシング・トレーナーとも呼ばれているそうです。)


◯ 傾聴するなら


「傾聴」と「フォーカシング」はワンセットと捉えてもいいぐらい、「フォーカシング」を知る・感じるほどに、深い傾聴に向かいやすくなりますね。

傾聴ベースで融合させていくと良いのはフォーカシングだけではありませんが、特にフォーカシングは傾聴を、より今ここにマッチするものにアップデートしてくれると感じています。

フォーカシングは体験重視の方法ですので知るだけではなく体験が重要ですが、まず、そのためには、少なくとも"知っておく"必要がありますね。


こう書いている私自身も、まだまだ「知っているつもり」なのだと、ハッとする時があります。

自惚れず、ハッとする瞬間を増やして感じ続けていけるよう過ごしていく日々が大事、ほんわか倶楽部としても、その在り方が求められていると思います。

フォーカシングも傾聴のように体験内容(事柄)よりも、刻一刻と変化していく体験過程のフェルトシフト(感情体験の変化をつかまえた瞬間の感覚)を重視する、深い傾聴とワンセット、そのものと言えます。

ここで前述の書籍の中から、最初のほうに書かれていた数行から抜粋して引用いたします。


(引用、以下から・太文字は村田が装飾)

『セラピストたちは最善を尽くしています。それでも、よくなっていくクライエントもいれば、よくならないクライエントもいたのです。』(中略)
『その違いは、最初の一・二回の面接でわかるのです。クライエントの部分でです。』(中略)
『治療が成功したクライエントは、面接のどこかで、話し方がゆっくりになって、言葉の歯切れが悪くなり、その時に感じていることを言い表す言葉を探し始めます』(中略)
セラピーがうまくいかなかったクライエントたちは、面接の間ずっと言いよどむことなく すらすらと話しています。
「頭で考えるレベル」にとどまっていて、からだで感じることがありません。
最初はどう言っていいかわからないようなことをまず直接からだで感じてみるということがないのです。
問題について、いくらいろいろと分析しても、説明しても、考えても、あるいは涙を流しても、セラピーは結局はうまくいきませんでした。

(引用以上まで)


○ 味わうように感じて、近づきたい


上記の引用部分だけでも、私も複数のクライエントさんとのセッション体験から、両方に思い当たる節があります。

奥に深まっていくときは、スピードがゆっくりになるのは自然な反応とも言えますね。

クライエントさんと接している間、『真摯で深く』に没頭しているプロセスを続けていると、それに伴ったセッションとなる率が上がった体験が思い出されます。


考えるだけではわからない体感覚の言葉も、よく出ていたと思いますし、今なら体感覚に関する質問も、以前よりは自然に出せるようになって来た気がします。

話し手の奥にある、何かしらの気がかりにまつわり、ぼんやりと身体の軸にフォーカスしていった際に出てくる感覚です。

身体は、脳以上に叡智が詰まっているとも言われていると教わったことも思い出します。身体知でしょうか。


例えば…

「息苦しい感じがする…」

「喉の奥が、キュと締め付けられた感じ…」

「視界や頭が、ぐわんぐわんと揺れる感じ…」

…など、「感じ」で表されることが多くあります。


聴きながら揺れ動く自分の心を、丁寧に聴きながら…

話し手さんの心も聴いていく…

私は、この関わり方が傾聴の姿勢だと認識しています。


○ ひとりだと、なかなか行けないかもしれないところに…


こうすると、傾聴者の態度が話し手の方にもうつっていきます。

まず、聴き手自身が深まっていくように聴いていく…。

その態度を感じていくほどに、話し手さん自身も深まっていく流れがあります。

傾聴者が、じっくりと噛みしめるように、味わうように聴いて接していたら、段々とそうなっていく…。

私個人は、このプロセスの時に自分の呼吸も、ゆっくり目にしたりなど、よく意識します。


頭で考えると難しくなりますが、あたかも話し手さんのように感じたい…

それでも話し手さんと同じにはなれないし、もし、同じように感じていると思ったら、私は傲慢のような気がします。

それならば気持ちや心を味わって近づこうとするプロセスから、考えるより感じる傾聴に向けて、伴に歩んでいければ嬉しいです。

同じにはなれなくても、近づいていこうと、そのお話や言葉から味わうように噛み締めることは出来そうではないでしょうか?


そのようなとき、傾聴中に、どこかで分析思考を入れてしまうほどにブレやすくなることも、一回どころではなく体験して来ましたし、分析脳になるほどに心では聴けなくなってしまうように思えます。

伴にたたずんだり歩む共有の時間を通じて、ひとりだと、なかなか感じられないかもしれないところに、もし…ゆったりと行けるならと願いつつ…傾聴しています。

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