死とわたし
「死」ってなんだろう。
鬱をもつ私は他人よりも死との距離感が近いタイプだ。
なぜなら、症状のひとつ、希死念慮(通称:きしねん)は患者に「死にたい。この世から消えたい」と思わせる。
わたしも何度もきしねんに苦しんだ。
「なぜ死ねないの?」
「なぜ死んではいけないの?」
「わたしの命はわたしのもの。死ぬタイミングもわたしが選んではいけないの?」
たくさん考えた。その分身近に感じている。
人を殺めないと誓った流浪人、剣心
映画「るろうに剣心 The Final」を今日は見に行った。
(シリーズ序盤の内容は覚えていない....)
ストーリーに触れておくと....
彼はかつては名を馳せた人斬り抜刀斎であったが、想い人をめぐった一連の出来事をキッカケに不殺(ころさず)の誓いをたてた。ひとを殺すためではなく、救うために刀を使うと心に刻んだのだった。
そして、剣心に対し積年の恨みをもち、彼が関わるひと・街・なにもかも全てを武力によって壊滅させる縁(えにし)さえ剣心は殺さなかった。
私は映画を見ながら、剣心の周りにいるたくさんの大切な人間たちが縁の企てによって死の寸前までに追いやられたにも関わらず、それでも彼が縁を殺さなかったことにモヤモヤした。
不殺というキャラクター設定やその考えに至るまでのストーリーといった、映画のなかの話だからというのもある。でもそういう作品設定は脇において、残虐な殺人を今後も起こしかねない人間が生きる意味について考えた。
映画を見終えて
わたしのなかで引っかかったのは、犯罪者を死で罰しないことではない。犯罪者でも、罪を犯したことがない人間も同じ「生」が与えられているということだ。
生と死は全ての人間が平等に持つもの。
自らの生を、自らの手で、なにも悪いことをしていないのに、壊す人もいる。死に至らずとも自死しようと試みる人だって沢山いる。るろうに剣心の縁が生きているという事象は一般人の自死と対をなすのかなと考えた。
死んでもおかしくない人間の生が他人によって延びることもあれば、
死ぬ必要がない人間が自ら生を絶つこともある。
人間の命にはいつ何が起きるかわからない。
法を犯したことがなければ、死にたいとも思っていない私。
自分の命をどう扱おう?
映画を見終えた私のなかに残ったものはこの質問。
おわり