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8. 猫の存在感
亡くなって4週間近く経過しようとしているが、私がさっすーの気配を感じることが少しずつ減ってきている。さっすーが亡くなった直後は、さっすーが生きているのと同じように、ついリアクションしてしまう自分がいた。たとえば、ダイニングテーブルから離れる際、テーブル下で横になっているであろうさっすーの足を轢かないように、そっと椅子を動かす、など16年間に培われた無意識の習慣がまだ残っていたのである。たとえ、亡くなったとしても飼い主のところにイタズラに来ているのか、という人間の勝手で都合の良い思いは、ペットロスを乗り越えるプロセスの一つではあるのだと思う。さっすーは、生きている時も、いろいろなイタズラ、というのであろうか、私とのコミュニュケーションをまるで楽しむかのような行動をしていた。
靴が好き
たとえば、私が外出して帰ってくると、だいたい、何かが元の場所から移動していた。なかでもさっすーは私の靴が大好きで、帰宅すると私の靴が部屋のいろんなところに移動していた。「あら、さっすーまたこんなところに持ってきてる!」というと「にゃー」とも「しゃー」とも言えないような声で1回は反応する、彼の謎の行動。。。
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また、私のスリッパも好きで、外出している間に移動しているだけではなく、ちょっとした間にも咥えて場所が変わっていることもあった。これは一体猫にとってどういう意味があるのであろうか?もし、ご存じの方がいらっしゃったら、ぜひ教えていただきたいものである。そして、真夏であっても私の帰りを待つ間、草履を温めてくれるという藤吉待ち(と私は呼んでいてた)をしてくれることもあった。
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仕事の邪魔は当たり前
さらに、この記事の画像にあるように、私が仕事をしていると必ず邪魔?をしにくるかのようにキーボードと私の両手の間に入り込んでくる。加えて、キーボードに入力している手に、あえて?乗ってくるなど、仕事の妨害をするというのは毎日の出来事であった。
Zoomなどのオンライン会議に登場するのも「猫あるある」である。COVIDー19感染拡大の初期である2020年頃は、オンラインツールから見知らぬたくさんの人の声が聞こえてくることに興奮し、「しゃーふー」言っていたくせに、慣れてくると会議をしているとあえて、カメラを横切るということも日常茶飯事となっっていった。しかし、悲しいかな、さっすーの体調が悪くなるにつれて、このようなイタズラの回数が次第に減っていくのである。
日常からフェードアウトしていくさっすー
考えてみれば、こうしたやり取りは、さっすーと私の会話のようなものだった。さまざまなイタズラを通じて、さっすーは私の反応を楽しんでいたようにも思えるし、それは人間の都合の良い思い過ごしなのかもしれない。
下記の記事によると、大人の賢い飼い猫は、2,3歳の子供と等しいようである。
Many feline behaviorists as well as child psychologists seem to agree that the intelligence of an adult cat equals that of a 2 to 3 year old child.
確かに、私が落ち込んでいる様子を見せた時には、なぜか横にちょこんと座って私の顔を眺めたり、前足を私にちょんちょん、としたりしていた。まぁ、私が普段と異なる態度を示しているので、自分に危害を加えないかどうか確認していただけなのかも知れない。それでも、さっすーは人間の機微を良く感じ取っていたような気がしている。そう考えると、上記の引用した記事は的を得ているのだと思われる。
16年の間、日常のごく普通の私とさっすーのコミュニュケーションは先月ピッタリと止まってしまったわけだが、冒頭に記載したように、彼が亡くなって1、2週間は、さっすーと生活している時の当たり前の行動が私から抜けず、1日に何度も「あ、さっすーいないんだ」と思うことがあった。しかし、4週間経とうとしている今、そのような感覚も少しづつ消えようとしている。私も引き続き生きて行かねばならないので、いつまでもペットロスの感覚に浸っているわけにもいかない。
さっすーがなくなった後、使わなくなったフードや猫砂を保護猫ボランティアの会に譲渡したり、ケージを片付けたりして、我が家から少しずつさっすー関連の物が消えていっている。さっすーとベッタリだった16年間の思い出もこうやってフェードアウトしていくのか、少し寂しいような、仕方がないことなのか、複雑な気持ちである。そして、幸か不幸か、まだ夢には出てこないさっすーなのである。
次の記事は、猫と暮らすにあったっての先立つもの、お金についてお話しする予定である。