文字を取り扱う事と運動の連動
はじめに
ようやく自分の時間を自分が望む範囲で管理する事ができ始めた事がこの記事を書く動機となっています。仲間に感謝を申し上げる。
映画や音楽、今生きるこの時代にかけがえのない瞬間があったことがこの習慣を美しく感じるタイミングに仕上げた何かの流れがあったのだと思う。
面白いのは俯瞰して見れる高みに人の発火する感情の細やかな煌めきとまだらな色の違いが思い出を通して同じ時間で確認する事に意味があると信じているだけなのだと思う。
じゃあ、言ってみよう。セーーーイ?
運動する習慣の限界
運動習慣のモデリングは時間に制限を受ける。インスピレーション自体は色々な方法で確認することは可能だが、実際問題としての達成能力は自分の許可できる範囲のトレーニング時間に応じる事なのは当然の事。
気持ちと実行可能な範囲に収まるトレーニングメニューと鍛える期間が目標と目的の届く範囲にある限りは再生産され続けるようである。
環境の制限を受ける事は実際にほとんどない。この事は一種の矛盾を孕んでいる。実際の問題として現れる事は共感や人間関係の範囲にあるコミュニケーションとして現れる。自身PDCAには問題がなくても、周囲や組織のPDCAには不具合が発生する機会がある。頭の中でも体の使い方でも、感情的な反応として確認できる。(お互いに同時期に)
だから、情報発信の不条理が、ある種の価値原則の中に優位性と意味が両立するように存在し続けているのだと思う。
ややこしくなっているだろうから、運動はしたいだけして平気なんだけど、ある時から動機や目標に意味が伴わなくなってしまう事は起きてしまう。だから調整や調節する事に頭を使う時間を割かなくてはいけない。その事は単純に同時に扱う事はかなり無茶な事になる。だから、実行者と管理者としての役割を自分に与える事で第3の選択肢を準備するキッカケを産まなくてはいけないと言わざるを得ない。(なんとなくそんなものかなとは思う)
言われた事をいつまでしなくてはいけないのかという不愉快さを確認する事はある種の節目として決めておけばいいと思う。その時に観察する立場として何か共通の物差しが自分に信頼を産む自動化が成立すると経験として確認している。
まあ、程々でも十分なんだよ。みんな真似することはまずないし、長く続くことは滅多にないから。
頭の使いかにも限界を設ける事
この記事は簡単に説明する事に焦点を置いているから、手短になってしまうけど。
行動経済学について見識を深めるといい。
なぜなら、統計の取り扱い方を実感として持っているだけで限界についての認識を簡単に客観視できるようになるはずだから。
単純に自分だけが被験体だとしたら、実験の回数分の計画が必要になるのと、人数が準備できる上での同じ実験の効果を確認できる事の比較には目的や計測結果に違いがある。同時に扱う事とはならないのが論理的に理解できていれば十分。ここで管理側と実行者の意識の違いを区別できるようにしておくことは感じな事だと私は自覚している。
この意識は大きな違いのようである。コミュニケーションにおいて感情上の不具合が確認できる事が実際にいつも起きる。そんなもんなのだと思う。
だからこそ、自分を鍛えた事があるかどうかはそれなりに意味があるし、自身にとっては意味があった。観察する事の意味が少し成長したから。感謝するんだ。そんなもんで十分だよ。実際の記録に何が残っているか楽しみだからね。
コーディネーションと時間管理の間には
時間がもう少ない。
習慣と計画には実際問題として自分自身の中には不具合が出続けるようだ。これはアスリートにも確認できる。時々ニュースにだってなるくらいだからね。
だから、自分できちんと確認して、今までの習慣を分解して組み立て直す事も、改めて練習し直す事も、新しい習慣を作ろうと意識する事も案外必要な事なのだと思う。頭と体の使い方にある執着は宗教レベルまでに理解を深めるとすぐに出てくるけど、生活における執着は当事者同士でしか確認できないからね。知っているけど変えられないものの一種かもしれない。だから自分を変えるほうが簡単だよと言っておけば自分自由が確保できるとは思う。
そんなもんで今日は終わりにする。
音楽は「イッサイガッサイ」だったよ。おもしろくなるだろ?
こうやって手放すのも大切なんだってさ。アーーーイ。