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読書を無駄遣いする事
はじめに
健康習慣を構築し維持できるようになると起きがちな目標に関わる頭の使い方について話をしたくなった、だからこの記事を書く事にしました。
若干態度が大きめではあると思います。なぜなら、自身の練習量が意識の上でコンパクトに日々の思考に定着した後の話になるからです。ネットの有名人の影響を受け、自分の習慣を変える決意を持ち、実際に努力の甲斐あって習慣が置き換わった後に起きる現実は実際の事としてかなりの悪感情を抱かせる。その経験からもう少しなんとかならないかともがいた先のまとめになればと思い、記述しています。
思考体験としての習慣のいいとこ取りは自身の体にはあまり良い影響をもたらさないというのが個人的な見解ではありますが。脳内体験としての再現性はそれなりに約束されているので実行される運びとなりました。個人的な偏見をもとに言えば、どうせ繰り返すのなら共有したほうが負荷は高めだからついでに実践する事が効率的と判断しなくてはいけない。といったところで始めていきたいと思います。
不愉快でも続ける意味と価値
健康習慣、一口に言っても実践と継続を達成するのは一苦労なのが習慣の置き換えの困難な所。頭の使い方だけで言えば、時間を枠組みで記録し、その時間分の別の最適な活動を収める事が賢いと言える。理想と現実を理想に置き換える努力をすることから始める。
理想とは、現実時間でいつも思い描くことは実際には難しい。理想という現実時間における願望に過ぎないレベルが精々だからだ。だから外部記憶に頼り、見て習得できるレベルから試しに始めてみるという程度のアクションを選択する。現代ではYouTubeで時間と環境がほぼ準備できるようにはなってしまったから。超長期的に目標を設定する事ができるのならば、健康習慣におさまらない時間管理が構築される土台も見えてくるというもの。なぜ、あの憧れの人はあんなにも興味が広いのか?その答えを実際に自分でも行動したくなる原因が気付かないうちに育っているのが習慣のすごいところ。便利さを求めずに困難を避ける努力がなぜか理想に近づく願望を、育てている事になるとそれなりの長い時間を伴う経験によって実感される理想として育つ事となる。
共感に至る勘違い、と言ってもやはり、自身の経済環境に基づく自己投資には限界がある。脳内再現だけではなく、実際の生活全般の活動にはヒエラルキーにも似た縦構造の人の広がりがある。このことを乗り越えるのは、もう、過去の遺産に頼るように歴史を理解していく過程となる。大袈裟かもしれないが、実際問題として過去の偉人は自身の問題を弛まない物語として歴史に残る偉業を達成してきたに過ぎないから、簡単に表現されるほど使い古される実績があるからこそ今も活きているように思うのだ。だから自分もいつかきっと、という感情を伴う想像力が繰り返し反復される事で記憶としての効果を持ち出す時間の変遷と実践により、区別の難しい感情体験として応用や引用に用いられると私自身理解している。勘違いでも、過去できなかった事ができるようになった事実は自身が一番理解できる。他者にとっての疑いに近い事実に過ぎない。
やはり諦めがちな意識
習慣と勘違いの確認、というどうしても避けない頭の使い方。人は教えることを通して自身の学習経験をアップデートする機能がある。この機能は他人から教えてもらい意識される。そして教える事で意識から無意識に運用され、簡単に利用されるようになる。練習とはそういったプロセスだといえる。コミュニケーションの限界は正確さを大雑把に維持できる形が整っている一種のプロセスに固定されている、そこから生まれる信頼に基づいている。習うより慣れろとはよく言ったものである。
勘違いに至るプロセスもそれなりのパターンがある。実践と想定の交換により実現すると理解している。コミュニケーション上の確認というプロセスが挟まれる事で理解の差を共有できると思う。当然、騙す騙されるといった、人間らしさの誤謬というものも忘れてはいけない。立場と役割があやふやにされてしまうのである。だから勘違いの範囲での経験と想定が主体をなくしてしまうと思われる。
昔から、決まった形で人類は文明を進歩させてきた。この形は繰り返し壊され、改めて過去の形に沿って新しいものとして再構築されていくプロセスがある。新しい生活が混乱を伴う時間を経て、過去の生活と比較可能な生活として構築し直されるのである。
意識してこの記述をするのは難しいようだ。誤解を覚悟で書き進めるという断りを入れさせていただく。
新しい活動をしている人は、ある種の決断の下、自信を世界から切り離し自身の信じる新しい時間の使い方に見を投じる生き方を選んだという事。その事実への共感から模倣という形で後からついていく決意を続けて行った結果が今の人類に見てとれる現実なのだと理解している。文書が定着し、情報機器の発達により、人間の代謝よりも早く世界が変わる可能性を理解しつつも、実践においては想定以上の時間を必要とされる不安や恐怖を抱きながら実行し続けるのはやはり、感情的には諦めたい出来事に含まれると思う。
最後にものをいう感覚と時間
結論的な記述として、私自身の軽作業の経験から活かされた健康習慣の記憶はもはや薄らいで退屈な映画鑑賞の時間に置き換わってしまった。反芻されるように過去の人間関係を確認しながら、実際のアクションとは裏腹な思考体験がフラッシュバックのように再生され鍛えるよりも強く自信に焼き付いている実感を体験する。結果、体に反応する精神的な痛みが起きる。幻覚のような痛みに補完する実際の体の使い方を繰り返し躾直す機会を得た。具体的にはヨガやストレッチをしながら自己啓発系のインプットをYouTubeから行った。過去の体験を自身でカウンセリングする機会を意識して習慣化したのであった。
ここで、取り上げられる過去の経験として、脳内思考を自身で意識して統一した時間がものをいう事となった。「千回の法則」という書籍に基づく、一定の思考の実践である。たくさんの状況、状態でも繰り返し祈るように唱え続けていた脳内体験に意味があることを確認し続ける事、という。自身で意識して規則正しく続けていた一連の思考習慣に信じるよりも早く効果が現れる確信を維持していた。
繰り返しやってくる幻の痛みに立ち向かう過去の自身の意識して取り組んだ思考習慣に基づくひとまとまりの思考イメージが書き変えるよりも早く間違いや不正確な意味に気がつくことが出来る直観が備わっていると理解していた。つまり、周りは敵だらけの現実でも自分を見失わずにミッションの遂行をする兵士と共感がなされる自身の脳内環境が再生されていた。
大体、自分の挑戦は失敗に終わるまで続けていただけに過ぎない。うまくいく状態になってからが悪い選択の連続になっていた。環境を移動する必要があるという目標に変えなかった事が失敗の始まりだった。この目標は誰も教えてはくれない。だから勝手に始めて勝手に移り終えるまで黙ってなくてはいけない。これが転職における基本的な姿勢なのではないだろうか。裏切りや不義理につながる動機付けをどうして教えなくてはいけないのだろうか。あえて無駄や失敗を教えるアホがどこにいるのだろうか。この答えは、締め切りがきられると同時に明確になる。