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SF名作を読もう!(28) 『100年の孤独』×『クララとお日様』×『アンドロイドは電子羊の夢を見るか』×α(アルファ)としてのクラクラ来る魅惑的SF『羊型式人間摸擬機』
『羊型式人間摸擬機』というタイトル自体がまずは「?」なのだが、読めば読むほど「?」が広がると共に、分かったような気にもなる。これを「SF」と言っていいのかむしろ「文学」というべきかは意見が分かれるであろうが、しかしこの作品が「第12回ハヤカワSFコンテスト大賞」を受賞したということは歴史的事実であり、であれば、我々はこれをSFとして評価すべきであろう。
ここではネタバレになるためストーリー自体には踏み込まないが、まあ、なんというか独特の世界観である。そしてその独特の世界観を作り出しているのが筆者の文章力である。ある主人公の目を通しての「語り」という体(てい)なのでこの文章なのだろうが、この文章が書けること自体が筆者の力量を物語っている。犬怪寅日子(いぬかい とらびこ)というその筆名自体が独特の世界観を持っている方だが、コミックの原作などはしたこともあるものの、本格的な作家デビューはこの本らしい。そして先に行ったようにSFか同課は別としてもハヤカワに応募したところもいい!当時まだ日本では知られていなかった後のノーベル文学賞作家カズオ・イシグロを世に送り出したのもハヤカワである。ハヤカワ=SFというイメージが強いがそうではない。個人的な印象だが、ハヤカワが出版社として重視しているのは「作家の想像力」であると思う。そしてこの『羊型式人間摸擬機』、まさにその想像力に満ち溢れている。
そう、想像力! これこそ我々が愛するSF小説の肝だと言っていいであろう。その意味でこれはやはり立派なSF小説である。そしてこの小説においてはこの小説の世界全てが想像され創造されている。そしてその上で「リアル」なのだから恐ろしい。SFのFはフィクションのFだが、フィクション(作り話)であってもそこに何らかのリアリズムがなければ読む人はそこに入って行けない。いわゆる正統派のSFはSFのSであるサイエンスが持つ科学性、その科学的絶対性をその「リアル」の基盤としている。たとえそれが似非(えせ)科学であっても、「この世界ではこれが科学の定理、つまりは世界の原則なのですよ」とすることで人をそこに引き込む。しかし、この小説はそうではない。では、どうして人はこの手の小説であってもそこに引き込まれるのか。
これもあくまで個人的な見解だが、ここには「命」が描かれているからだろう。「命」が一つのテーマとなっているからだろう。「命」とは何か、それは決して脳でもないし、心臓でもない。そう、「命」とは物理的な「モノ」ではないのである。しかし、それは物理的な「モノ」と同じように壊れる、つまりは「死」という形でなくなることがある。この不思議さ、この謎さ故に「命」というものを多くの作家が扱ってきた。そう、「命」は科学の対象ではなく文学の対象なのである。そしてサイエンス・フィクションとしてのSFはそこにサイエンス(科学)という言葉があってもやはり文学である。というかサイエンス(科学)という要素をどう「文学」に取り入れるか、「文学」という要素をどう「科学」に取り入れるか。その困難な課題に挑んでいるのがSFというジャンルだとも言えよう。この作品もその試みの一つである。金井香凛氏による見事な装画も含めて、超お薦めである。