はじめに
本稿は、これまでnote上で検討してきた論考を、改めて『複人論:メタバース時代の存在論』というタイトルの下、一つにまとめるものである。
本稿のテーマというか出発点を一言でいうと、「なぜ人はリアルでないものに対してもそれをリアルなものと捉えるのか、なぜ人は現実ではないフィクションの世界の人物や出来事に対してさえも心を動かされるのか、なぜそこに「世界」を感じるのか」というところにある。
本稿はSF小説をめぐる論考からスタートする。SF、即ちサイエンス・フィクションとはそれ自体がある意味矛盾した言葉である。なぜならサイエンスは科学であり、科学は事実(ノンフィクション)でなければならないからである。そしてその矛盾故に、より正確に言えば矛盾が矛盾であっても存在してしまい、そこに心惹かれるが故に、今度はその疑問は「科学」という概念に対しても向けられることになる。しかし、「科学」を語ろうとするとき、これもより正確に言えば「科学」について語ろうとするとき、そのような試みはもう厳密な意味での「科学」ではなくなってしまう。なぜなら「科学」とは一つの「枠組み」「パラダイム」であり、それについて語ろうとすると必然的にその「枠組み」「パラダイム」を見渡せる場所、即ち「科学外」としての「メタ地点」に立たなければならないからである。そうであればそのような試みはむしろ「哲学」と言ったほうが近いであろう。
では、今度はその「哲学」とは何なのだろうか。「哲学」とは「科学」の上位(メタ)概念なのだろうか。そしてそうであれば哲学はすべての「学」のメタ概念なのだろうか。
実は、この問いも本稿の底にベース音として流れているテーマでもある。しかし、前もって断っておきたいことは、本稿は決して「科学」についての論考でもなく、さらには「哲学」についての論考でもない、という点である。もちろん本稿のなかでそれらについて考察、検討することはある。しかし、本稿が扱う(扱いたい)のは、むしろそれら(=「科学」や「哲学」)を踏まえた上での、現代人の生き方であり、あり方のほうである。本稿ではその「現代」を、「メタバース時代」という言い方で表す。ここでいう「メタバース」については、とりあえずは「メタ=超」というその本来の意味ではなく、むしろ「複数」として捉え、「複社会」「複世界」「複人生」という言葉で表現しておきたい(と書きながら数年後には「メタバース」という言葉が一時の流行語で終わってしまう可能性が高いことを念頭に置いているのだが)。その意味では、映画『スパイダーマン』シリーズで使われているような「マルチバース」という言い方の方がもしかしたら近いのかもしれない。とにかく、我々現代人は、その「メタバース」と呼ばれる「もう一つの世界」に、現時点ではVR機器をこそ身に着ける必要があるが、実際に身も心も入り込むことがができるようになったのである。観念、あるいは概念としての「メタバース」ではなく現実としての「メタバース」に、我々は自らを位置づける(=その場に身を置く)ことができるようになったのである。
しかし、こう書くと、恐らく多くの人が、「いやいや、でもそれはあくまで「仮想」であって「現実」ではないでしょう?」と言うであろう。でも、「仮想」か「現実」かは、もはや問題ではない。なぜなら、最初に述べていたように、我々人間はそれが「仮想」(=虚構)であっても、それをリアルなものと捉え、そこに心を動かされているのだから。そしてそれに心を動かされる以上、それはもはや本人にとっては「リアル」以外の何物でもないのだから。
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主に2022年から2023年3月頃までに書いたSF、アニメ、アバター(Vチューバー)、VR、メタバースについての論考をまとめました。古くな…
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