アマゾンプライムお薦めビデオ④ 156:期待しかない!アニメ『推しの子』第2期
原作漫画を読んでないのに何を言うかとファンからは怒られそうだが、待望のアニメ『推しの子』第2期は、いきなりアニメで2.5次元舞台のオープニングを再現するという逆転の発想(そもそも、アニメや漫画を舞台化したものが、2.5次元舞台なので)から始まった。そしてそれが恐ろしくカッコいい!
なるほど、その手があったか、という感じである。これはアニメ『推しの子』第1期の紛れもない続編であるが、しかし、同時にこの第2期自体が「舞台」を舞台としたもう一つの作品となっている。オープニングもまたYOASOBIで来るのかと思いきやそうではなかった事実もそれを物語っているだろう。今期は今期でまた違う世界観を出そうとしている。
虚構と現実、あるいはフィクションとノンフィクション、人はそういった分け方が好きである。というか人は基本的にそういう分け方をすることで物事を思考するわけである。『推しの子』にしても基本構造はそれである。表向きはアイドルであった少女には実は子供が二人いた、という設定から始まるわけだが(このぐらい言ってもさすがにネタバレにはならないだろう、この後にさらに衝撃の展開が来るのだから)問題なのはこの場合どちらが表(現実)で、どちらが裏(虚構)か、という点である。アイドル本人にとっては、愛する子供たちとの生活こそが表(現実、あるいは真実)であり、アイドルであることは裏(虚構)であろう。しかし、アイドルという存在は、そこにファンがいればいるほど、それは世間的には、社会的には「表」でなければならないし、本人もそれを「表」としなければいけない存在である。事実、成功するアイドル(今の時代ではVチューバーなどもそうであろう)は、それができている人たちである。当然それは厳しいというか残酷なことであり、だからこそ「アイドルを引退する、しかし、芸能活動は続ける」というよく分からない仕組みが、少なくても日本の芸能界には存在するのである。「アイドルを卒業する」と宣言することで、ある意味表と裏をひっくり返すことができるし、ファンもそれをすんなりと認められるのである。しかし逆に言えば、この事実こそが「アイドル」というものが虚構を現実とすることで成り立っている存在だということを再確認させるという、ある意味皮肉な結果ともなっている。
話がアイドル論になってしまったが、では、2次元キャラクターはどうだろうか。アイドルの本質というものを追っていけば、それは2次元キャラクターの本質というか存在論とも必然的につながってくる。2次元キャラはそれが現実か虚構かといえば虚構である。しかし、その作品の中ではそれは現実であるし、ファンにとってもその存在はもはや現実なのである。つまりは2次元キャラとは(今ではいわゆるアバターという3次元キャラもあるだろうが)虚構の中でこそ生きられる現実、虚構の中でこそ生きる存在としての現実としての虚構なのである。
であれば今度は役者はどうか、という話もなってくるだろう。役者は現実の人間であるが、舞台や映画という虚構の空間の中で「虚構における現実」としての役を演じる。そして話が更にややこしくなるのは、役者自身も、特にその役者がスターであればあるほど、アイドル同様、その人はその人自身を生きているというよりも「スター」としてのその俳優自身を生きているわけである。ここではもはや表と裏、現実と虚構が幾重にも重なってきている。Aという訳者がBという役を演じるとき、人はBという役を見ていると同時にAという役者を見ている。そしてそのAという役者自身も、Aという役者という仮面(そう、まさに「ガラスの仮面」!)を被った存在なのである。そして話を本作に戻せば、この『推しの子』第2期は、まさに役者が役を演じるということ凄さと辛さを、アイドルがアイドルであるということの凄さと辛さを、アニメという虚構の世界で見せてくれようとしているのである。しかも、以上の私のような理屈っぽい論考としてではなく、今の時代の最高のエンターテイメント作品として見せてくれているのである。
「マヤ、おそろしい子!」という舞台を描いた傑作漫画『ガラスの仮面』の名セリフを借りれば、まさに「『推しの子』」、おそろしい作品!」である。