第3部 Vtuber/Vライバー論:キズナアイという「存在」(11)
11.「分人」から「複人」へ(1):「複人」という捉え方
さて、このような見解を踏まえると、人間のあり方も、「分人」というよりも「複人」と考えた方がよいのではないだろうか。「個人を整数の1だとすると、分人は分数だ。人によって対人関係の数はちがうので、分母は様々である。そして、ここが重要なのだが、相手との関係によって分子も変わってくる。」と平野は述べていたが、「個人を整数の1」と考えること自体がそもそも個人主義的である。それに対して「個人は1ではない。個人はそもそもが複数(1以上)である」と考えるのが、筆者の言うところの「複人」であり「複人主義」である。
個人が複数の言語を用いる「複言語」という状況はヨーロッパであればイメージしやすいだろうが、日本も決して例外ではない。言葉というものを社会言語学的に捉えた場合、我々は様々な人に対して様々な言葉遣いをする。つまり「相手との関係によって言葉も変わってくる」のであり、そのそれぞれがその人の中にいる「複人」としての「他者」の言葉なのである。これまでは「国民国家」という「想像の共同体」の上において、ある優先的な言語による教育が「前提」とされて」いたように、「個人」という「想像物」の上において、自己同一性としてのアイデンティティというものの存在が「前提」とされていた。言い換えれば、いままでは、「個人の複数性」「多様で多元的な存在としての人間」というありかたは、隠され、存在しないもの、ないものとして処理されてきた。
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主に2022年から2023年3月頃までに書いたSF、アニメ、アバター(Vチューバー)、VR、メタバースについての論考をまとめました。古くな…
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