ハイデッガー『カントと形而上学の問題』レジュメ

ハイデッガー、門脇卓爾/ハルトムート・ブフナー訳『カントと形而上学の問題』(翻訳は一部改変)創文社、2003
Heidegger, Martin, Kant und das Problem der Metaphysik,1929

第一章 発端における形而上学の根拠づけ

 個々の存在者をめぐる存在的な認識の可能性への問いを超えて、存在論的認識の内的可能性を問うことが形而上学の根拠づけとなる。存在論的な認識は、存在的な認識を可能とする。ア・プリオリな綜合は、存在者の存在についての規定を経験的ではない仕方で提示するものであり、先行的な存在の理解の可能性に関わる(=『存在と時間』における存在了解の問題?)。


第二章 遂行における形而上学の根拠づけ

A 形而上学の根拠づけの遂行のための還帰次元の特徴づけ

認識の本質は直観することであるが、それは人間において有限的なものである。これが現象と物自体の区別につながる。有限的直観は悟性による規定を必要とする。よって、有限的直観は「感性」「悟性」の二つの源泉根拠を持つ。

B 存在論の内的可能性の企投の遂行の諸段階

・根拠づけの第一段階 純粋認識の本質要素

純粋直観は「時間」「空間」。このうち「時間」の方がより根源的に主観に内在している。純粋悟性概念は反省の作用によって生じるのでなく「反省する概念」として悟性そのものに内在する。

「範疇」は「純粋認識においてはたらいているような述語の体系、すなわち存在者の存在について言表する述語の体系」[55=ハイデッガー、2003:65]。しかしそれは判断表から導出できず、根源が疑わしい。→純粋思考の直観への依存


・根拠づけの第二段階 純粋認識の本質統一

時間(感性)と純粋思考において思考されたもの(悟性)をいかに統一するか。統一は「孤立された部分の後から付加えられた結合によって得られうるということはますますないだろう」[59=ibid.:67]。要素の統一可能性は要素に先行し、要素を根拠づける。

純粋思考と純粋直観の統一(純粋綜合)は構想力の作用である。感性・悟性・構想力の三元性。構想力による純粋綜合の問題は、存在論的な認識の根拠づけの問題となる。

存在論的な認識の可能性の中心となるのは、二つの超越論的部門(超越論的感性論・超越論的論理学)のどちらに属するのか。超越論的論理学の優越性は、「超越論的感性論の機能の価値低減やあるいはその完全な排除などとはまったく別のもの」[67][ibid.:75]。それらの統一を見なければならない。


・根拠づけの第三段階 存在論的な綜合の本質統一の内的可能性

存在論的な認識の可能性は、人間が……(何かしらの存在者)に対立しうるための条件である。これを可能にするのが悟性であるが、しかし「その場合悟性は最高の能力へと表明されることになるのではなかろうか」[75=ibid.:82]。ここにおいて悟性は自らの有限性を逸脱してしまうのでは?

悟性はなるほど最高能力であるが、同時にそのことにおいて直観への依存性が最も鋭く証明される。「純粋悟性が悟性として純粋直観の奴隷であるかぎりにおいてのみ、悟性は経験的直観の主人で在り続けることができるのである」[76=ibid.]。このような悟性と直観の相互依存は、「上から下へ」(悟性→直観)の「第一の途」と、「下から上へ」(直観→悟性)の「第二の途」の二方向で証明される。

「第一の途」:超越論的統覚(「私は考える」)による統一は綜合を前提とし、本質的に純粋構想力に関係している。超越論的統覚は構想力を経由し、時間とア・プリオリに関係をももつ。

 「第二の途」:個々の表象の結合性は、有限的認識作用の中で経験されることができなければならない。そのためには、最初から時間のなかでの結合が構想力によって表象されている必要がある。しかしこのような結合作用は、「常住不変の」超越論的統覚としての私の自同性を前提としている。

  

・根拠づけの第四段階 存在論的な認識の内的可能性の根拠

 有限的存在者(人間)が眼前にある存在者を受容するためには、それに先立って存在者との遭遇を可能とするような地平が形成されていなければならない。これを遂行するのが純粋構想力である。純粋構想力はこのような光景を創造し、私たちに与える。ここに初めて超越=ア・プリオリな綜合の可能性の根拠が見出される。

 構想力は、光景=形像(bild)を与える(感性化)。ここで、光景または形像は、その内容に応じていくつかの異なるものを意味する。①存在者の直接的光景、②存在者の眼前にある写像的光景、③或るもの一般についての光景。構想力による図式作用は③を与えるものであるが、これはいかなる直接的な直感的光景をも与えるものではなく、むしろ一般に或るものが或るものとして呈示されるためにはどのように見えなければならなないかを規制して描くものであり、「規則の一覧表」を表象することである。そしてこのような規則の表象こそが、形像可能性を形成するものである。例えば眼前に家があるとき、「この家の直接的知覚においてはすでに必然的に家一般というようなものへの図式化する先行的視野は存しており、このような先行的態度(Vor-stellung)からのみ遭遇するものが家として示され、「眼前にある家」の光景を提供することができるのである」[101=ibid.:106]。(=『存在と時間』における「……として」構造?)

 ところで、時間はあらゆる経験に先立って光景を与える。超越論的図式は純粋な光景としての時間の中に自らを持ち込むことによって形像を獲得する「超越論的時間規定」である。それは、存在者との遭遇を可能とするような存在論的地平をもちうることに対する可能性の条件に他ならない。図式性の章は、形而上学の内的可能性の探求として『純粋理性批判』を読んだ時に初めて明白なものとなる。


・根拠づけの第五段階 存在論的な認識の完全な本質規定

 カントによる「あらゆる総合的判断の最高原則」の定式──「経験一般の可能性の制約は、同時に経験の対象の可能性である」──に対し、ハイデッガーは「同時に……である」に着目し、それを「完全な超越構造の本質統一」を表現したものだと主張する。「この超越構造は、自ら立ち向かいながら対立化させることがそのようなものとして対象性一般の地平を形成することの中にある」[119=ibid.:122]。経験することを可能にするものは、同時に経験されるもの、経験可能なものをそのようなものとして可能にする。

 存在論的な認識が超越論的図式作用に基づくとしたら、それは構想力の「創造」の無限性に基いており、それによって超越の有限性は破壊されてしまっているのではないか。しかし、存在論的な認識は何か存在者を想像することはなく、それどころか存在者に関係することすらない。
 では、そこにおいて認識されるものは何か。それは「無=非経験的(超越論的)対象=対象一般」であり、カントはこれを「X」と呼ぶ。このような「X」を認識することが、あらゆる存在者の地平を開示するのである(→次章Cにおける自己触発の問題につながる?)。


第三章 その根源性における形而上学の根拠づけ

 A 根拠づけにおいて置かれた根拠の明確な特徴づけ

 構想力のもつ根源的な性格は、あくまでも『人間学』ではなく『純粋理性批判』(のA版)から汲みとられてくるべきである。経験的に枠づけられた『人間学』の構想力論に対し、『純理』の構想力は対象の形成に関係することなく、対象性一般の純粋な光景に関係しており、超越論的構想力と呼ばれうるものである。

 超越論的構想力は純粋直観と純粋思考の間にあらわれた一能力に留まらず、それらの根源的統一および全体としての超越の可能性に関わる「根本能力」である。それは他の要素に還元不能な固有の力であるはずだが、しかしカントは「心性の二つの根本源泉」として「感性」「悟性」のみを上げている。これは一見すると矛盾しているように見える。しかし同時にカントは、これら二能力の間に「知らざれる共通の根」の存在をほのめかしている。この「共通の根」こそが、超越論的構想力なのではないか。


 B 二つの幹の根としての超越論的構想力

 二つの心性の共通の根として構想力がある、という議論は、あらゆる認識能力が単なる想像=仮象へと解消されてしまうことを意味しない。むしろ、感性と悟性はともに超越論的構想力の構造に根差しており、それとの構造的統一によってはじめて機能するということを意味する。

 純粋直観において与えられるのは単に空間・時間という「直観の形式」であるという一般的解釈をハイデッガーは批判し、純粋直観においてもある種の全体性が直観されているとする。それは当然「悟性の総合」から生じたものではなく、むしろ「構想的存在」である。この意味で純粋直観作用は、その根拠において純粋構想である。

 『純理』におけるカントは、統覚の総合的統一の能力に悟性の本質を見出す。ここで、純粋統覚の「私は考える」は、……に自己を向けることによって取り出される。そして、このように……に向かうためには、あらかじめ存在者と遭遇しうるための地平が形成されていなければならない。だとすれば純粋悟性は超越論的図式性において存在することになるが、これは言うまでもなく構想力の所産である。

 このように、『純理』A版でのカントは、人間の認識能力の根底にある「不可知なもの」としての構想力を捉えていた。しかしカントは、その解釈に着手することなく、その反対にそこから逃避してしまった。B版における超越論的構想力は、悟性にとって好都合なように解釈し直されてしまっている。


 C 超越論的構想力と人間的純粋理性の問題

 超越論的構想力は、どのように時間に関係するだろうか。「今」の系列の純粋契機として時間は不断に流れるが、もしその都度現在の瞬間だけを直感し続けたとすれば、その中で継続される「時間」という地平を直観することはできないだろう。超越論的感性論における純粋直観は最初から「現前する」ものの受容ではありえない。ここにおいて、カントが形而上学講義において語った構想力の三位一体的な形成作用が関わってくる。構想力は時間の表象を産出するにあたって本質的な役割を果たす。「……超越論的構想力は時間を今の系列として生じさせ、そしてそれ故──このような生ぜしめるものとして──根源的時間なのである」[176=ibid.:173]。

 ハイデッガーはカントの「三重の総合」──「直観における覚知の総合」、「構想における再生の綜合」、「概念における再認の総合」──にそれぞれ内的な時間的性格を見出す。純粋覚知としての純粋綜合は、「現在一般」を提供し、純粋直観としての時間を可能にするものとして時間形成的である。純粋再生としての純粋綜合は、もはや現前しないものを過去のものとして再生し、過去性そのものを形成するものとして時間形成的である。そして純粋再認としての純粋綜合は、前二つの綜合に先立って存在しそれらの可能性一般の地平を探索するものであり、未来を形成するものとして時間形成的である。

 このように、超越論的構想力の内的時間性格の証明という課題は解決されたわけだが、しかし「自己の自己性をそれ自身において時間的に把握しようとする試み」[187=ibid.:184]という課題は依然として残っている。時間の主観的性格の分析から、主観の時間性格を解明することは可能だろうか。

 超越論的感性論におけるカントは、時間は対象についての表象の概念を「つねに触発しなければならない」と述べる。触発とは一般に眼前にある存在者が行うことだが、ここにおいては時間自身が触発するものとなる。これは「純粋自己触発であり、眼前にある自己に関わって作用を及ぼす触発ではなく、純粋なものとして自己自身に関わることというような或るものの本質を形成する。しかし自己として関係されうるということが有限的主観の本質に属する限り、時間は純粋自己触発として主観性の本質構造を形成する」[189=ibid.:186]。純粋自己触発としての時間こそが有限的自己そのものの可能性の根拠であり、超越論的統覚=「常住不変の私」を形成するのだ。


まとめ:

「カントの形而上学の根拠づけは超越論的構想力へと導く。この超越論的構想力は感性と悟性という二つの幹の根である。そのような根として超越論的構想力は、存在論的な綜合の根源的統一を可能にする。しかしこの根は根源的時間に根差している。根拠づけになってゆく根源的根拠は時間である。

 カントの形而上学の根拠づけは一般形而上学において着手され、そしてそのようにして存在論一般の可能性への問いとなる。この問いは、存在者の存在への本質への問い、すなわち存在一般への問いを提起する。

 時間を根拠として形而上学の根拠づけが生じる。存在への問い、形而上学の根拠づけの根本的問いは、『存在と時間』の問題である」[202~203=ibid.:198]

→現存在に根差した基礎的存在論(『存在と時間』)の問題へ

第四章 回復における形而上学の根拠づけ(省略)

 A 人間学における形而上学の根拠づけ

 B 人間における有限性の問題と現存在の形而上学

 C 基礎的存在論としての現存在の形而上学

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