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"心と身体と頭" Erika's Observation2
https://note.com/playfullifelab/n/nc5fbc2bce5ea
Erika’s obserbation1のつづき…
◆心はないことにしていた
頭でっかちな私は、いつの間にか "心はないこと" にするようになっていた。頭で考えて、"心はないこと" にするなんて簡単な事だと思っていた。
大切にし過ぎたのか、誰かに傷つけられてしまうのが怖かったのか今となってはよくわからないのだけど、大好きなものや自分の宝物のような体験は、今は関係ないものだから、箱に鍵をかけて心の中に大切にしまってしまって、時折出せばいいやと、そんな風に考えていた。
目の前で取り組んでいることに直接役に立つものじゃないし、誰かに話してみても大切に扱ってもらえない体験も重なって、いつしか自分から口にすることもしなくなってしまって。それが大人になるとかそういうことだと思っていたし。
そんなこんなで、誰にも聞かれないし、自分からも話さないことを続けていたら、わくわくすることや大好きだって感じる心を見せないようになり、いつのまにか自分の中にもある大事なものが詰まった箱のことさえ忘れてしまっていた。
思考を使って、遠くどこか自分の中の深いところに追いやることで、何かから自分を守っていたのかなぁ。いつまでも消えない底なしの”恐れ”のようなものがあったのだけど、感じてる心を忘れちゃうくらいに頭は忙しく、底なしの何かに飲み込まれていることに気づかないでいたんだなぁと、今更気づく。気づけて良かった。
◆身体は大丈夫と思ってた
頭でっかちな私はさらに "身体は大丈夫" と決めつけていた。
当たり前のことなんだけれど、身体と心は、自分の中に別々のものとして存在しているんではなくて、つながっているひとつながりのものなんだ。そういう理解をしていなかった。だから、心はないことにしていても、身体は大丈夫と何故か根拠のない自信と共に過ごしていた。
それがここ数年、身体を動かしたり対話をする中で、ぶわっと何かが自分の中でつながる体験が重なって、あーそうだよね心も身体も私の身体にあるひと繋がりのものなんだよねと体感がたまっていって、自分が今とても面白い。
バラバラなものとして私の中にあるんじゃなくて、どれも私なのだ。言葉にすると別々のもののように感じちゃうのだけど、1つなんだって、古武術のお稽古場での学びを通して、身体を動かしてるうちになんかそんな感じだよねと頭でも心でも身体でもわかってきた感じ。
思考する頭だけに捕らわれずにいたら、感じられる心を取り戻し、身体の声を素直に聞けるようになってきた。それをまた対話をする場で、言葉にすることで、身体がそうそうそういうことだよと喜んでくれる、そんな感じ。
◆賢い頭
学んだことを頭の中で言葉を尽くして論理的な文章で表現してみて、わかったつもりになっていたのだけれど、言葉にならないものは間違いなく私の中にあって、いつもそれが未消化のまま自分の中に残っているのが気持ち悪かった。だけど、賢い頭はわかんないのかよと私を馬鹿にしていたから、分からないという言葉を口にすることができなくて、苦しかった。
賢い頭だってきっとつらかったと思う。一人で考えなきゃいけなかったから。でも、感じられる心と、おしゃべりな身体の声が聞こえるようになったら、賢い頭は活き活きと私にはこんな世界が見えているんだよと言葉に変換してくれるようになった。そして、それを面白がってくれる人に出会うことができるようになってきた。3人寄れば文殊の知恵みたいな感じかも。
そんなこんなで、裸足になって身体を動かして、誰かと言葉を交わして心を動かして、頭の中もぐるぐると思考を巡らせていく中で、私が観察していることを言葉にしていくことが、私の世界をますます面白いものにしてくれている。
私の全部と対話する、それがたまらなく面白い。そう言葉にしたっていいじゃない。