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2024.11.23. いきる朗読(研究生日誌/ゆきの)

前回の「いきる朗読」から2週間。
仕事や家のことなど忙しい日常があり時間に追われ、体調も崩しがちだった。少しずつ身体を休めながら当日午前の用事も済ませ、どうにか乗り切って「いきる朗読」に辿り着く。身体は重いが、気持ちはホッとしている。

私はいつも、喉の奥が詰まっていて声が出ない感覚がある。人前で話をする時やカラオケで歌う時、詰まっている。だから、朗読のワークショップがある日の朝には、自分で少しだけ発声練習をしてから参加していた。

今回は参加前の発声練習をすっかり忘れていて、みんなで身体ほぐしをし始めてからそれに気がついた。「しまったなぁ」と思っていると、ファシリテーターの由梨さんが「自由に声を出してください」と、発声練習の時間をくれた。

でも身体ほぐしの後の発声練習だけでも、今回の私には充分だった。以前はいくら声を出しても詰まった感じはなくならなかった。むしろ声を出していると、喉が疲れて余計に声が出にくくなる。

「いきる朗読」に参加して前回くらいから、舌の根っこのあたりにあった声の蓋が9割くらいオープンしている感覚がある。この蓋が開いていて声が出せるととても気持ちがいい。子供のころからずっと持っていた詰まった感覚が、やっと改善してきた。

そして、この身体ほぐしと発声練習だけで、重かった身体が随分軽くなってきたことに気づいた。

今回はアメリカの現代小説の1シーン。
少年が女性のバックを引ったくろうとして失敗。恰幅のいいその女性は少年を捕えたあと、なぜか少年を自宅に招き入れ、顔を洗わせ食事を共にする。

身体も大きなその女性の気概。
何度か読み進めながら、声に出すごとに自分の身体に沁み込ますような作業をしていった。そうしようと考えていたわけではないが、結果的にそんな感じのことをしていたと思う。

私はやせ型だが、声が出る感覚があると、そんな恰幅よく気骨を持った女性にもなれるような気がした。と同時に、今まで生きてきた中でたくさんしてきた望まぬ経験や困難があるからこその、彼女の芯の強さであり少年への大きいけれど決して密着しない優しい眼差しであったりするのかと、そんなことを感じていた。

今の私にできるだろうか、その気概を持つことが。

「いきる朗読」
新しいものをいれるのではない。
元々あったものを掘りおこして磨いたり、
ふたしかなものをふたしかなままで受けとめたり、
確信していることをちがう角度で眺めてみたり、
声とことばとからだでやってみる時間です。

そして、由梨さんからの言葉。
自分の生活に朗読を引きつけていくと、独自の感覚が生まれてくる
これこそがアートの醍醐味だと思う

忙しい日常から離れ朗読のワークショップに参加したつもりだったが、朗読する世界は時代や国は違っても、人間の日常の1シーンだ。
だからこそ声に出して読んでみると、なんとなくわかってくる。私が言葉として表現したその深いところの、その役の人間としての存在感みたいなもの。それは、どうしても表現した私に返ってくる。

“いきる”朗読の時間だった。



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