【ノンタンの詩歌公論】茨木のり子「自分の感受性くらい」

「『だって』と『でも』は男が使う言葉じゃありません」
末次由紀『ちはやふる』31巻
ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて
【中略】
自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ
茨城のり子「自分の感受性くらい」

取り合わせが微妙としか言いようがないが、この二つのフレーズが頭の中で反響する。
上は小3から禁止されている「だって」と「でも」について、主要キャラクターの太一が思いを巡らせている場面。
自分だってそれを使って自分を納得させたいけれど、そのルールからがんじがらめになって、自分を追い込む方にしか行けないことを感じている。

そんな時私は茨木さんのこの言葉を思い出した。
茨木さんは「わたしが一番きれいだったとき」でも戦争によってやりたいことができず青春を謳歌できなかった悔しさを詠んでいる。
でもそれを戦争のせいにはしたくない、と。

仕事が辛い。仕事っていうかやってもやっても良くなっているのかわからない状況にずっと焦っている。自分だって言い訳をするような昔ほど弱くはないし、前向きに捉えていると思う。
だからこそ辛い。辛いけれど、のり子さんの言うことももっともだとは思う。
でもここから次にどうしても展開していけない。
わからない。

すいません、何が言いたいかわからなくなってしまいました。

こういう人の感情のどうしようもないことを言葉に乗せて留めておけるのが詩の在り方かなあと思います。
というまとめで逃げます、すみません。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?