介護のゴール
父が認知症と確定した日の翌週の水曜日。
姉と兄とわたしはファミレスで集まっていた。
これまでの父と母の様子を共有しつつ、今後の介護介入をどの程度やるのかを決めるためだ。
人によっては、大切な親だからということで会社をやめたり、プライベートを犠牲にして介護に身を捧げることもあるだろう。
だか、わたしたち三姉兄妹はそれは無理!とおもっていた。父のわがままのために金策や見栄のツールにさせられきた。また、母の八つ当たりのターゲットにされた。そのことで、あんなに苦しめられたのにどうしてまた親と積極的にかかわらなければいけないのか? という気持ちは捨てられないから。
それに、母の父に対する態度を見ているのも気が滅入る。母の態度は、虐待になるのではないか?と思うレベルだからだ。
母は「いままで我慢してきたんだ」というが…
夫が退職後、収入がなくなると夫婦の力関係が逆転するというのはよく聞く話。
だが、退職後もわたしの父は態度が変わらず、相変わらず上げ膳据え膳生活。
自分ができないことは、人にやらせるのは当たり前。
その生活が退職後20年は続いている中で体が衰えてきても、同じだ。
父が病気になる前からも、母は癇癪持ちだった。
きにいらないことがあると大声をあげる。本人としてはストレス発散なのかもしれないが、第三者に対する怒りをぶつけられるのはたまったものではない。なんで、わたしに怒るの?と聞いても、怒ってないわよ!とさらにヒートアップ。
怒りのやり場のない母の、主な理由は父だ。
若い頃に、父の姉にいじめられても、たすけてくれなかった。給与はほとんど父の医療費に消えるため、自分の稼ぎは生活費に消えてしまった。好きなものも買えない毎日。それなのに、好きなことをやめようとせず、お金も使ってしまう。家事もやらない。食べ物も好き嫌いが激しく、少しでも玉ねぎがはいっていると食べない。
この態度は定年退職してもかわらない。
その父のわがままぶりに、従い続けた母の決まり文句が「わたしの人生はなんだったのよ」。
今は、殴るけるの暴力はできないかわりに、母は言葉で父を追い込んでうさばらしをしようとするのだ。時には、わたしの目の前で父の頬をつねることもある。
そういうことはやめておいたほうがいいよ、とわたしがいったところで「いいんだっ、これぐらい言ったって。その分わたしは苦しめられてきたんだ」
この母に付き合いつづけることはわたしたちにはもう無理だ。
考えてしまうのは、最悪なパターン
でも。
わたしたちの介護の援助がないということは、父の介護は全て母の支配下に入ることになる。
軽度の認知症でもこうなのだから、認知症が悪化したら、いったいどうなるのだろうか?
わたしたちは、「かわいそう」という言葉よりも「最悪なケースが起きてしまうのだろうか」という不安にかられた。つまり、介護殺人だ。
このケースは避けたい、いや、避けなければならないと3人とも同意。わたちたちにとっては、介護をおこなうのは「人として、の理性」。ただそれだけだ。
父と母への思いを吐露しまくったあと、わたしたちは介護の目標をきめた。
それは「父の人生の終わりを、できる範囲で苦しまないように迎えられるようにする」こと。
そして、この目標のために、わたしたちがすることは
「できる範囲で、父と母を離す」「できる範囲で、母のストレスを減らす」ということ。
ポイントはできる範囲ということ。
できる限りではない。
わたし達は絶対に無理はしないと決めた。
父も母もお互い共依存だ。もしかしたら難しいかもしれない。それでも、私たちは両親に距離を置かせるようにしよう、と合意した。
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