人生における「決めること」
最初の挨拶
前回は、やけになって投稿して皆様のお目を汚してしまい、申し訳ありません。11月も無事に終わり、休職中のさくらきゅうりと申します。皆様は11月はどんな月でしたでしょうか。私は一言でいえば「変えようとした」月だったと思います。年の瀬ということもあり、これからのことを良くも悪くも考え、「変えようとして」そして「決めること」を決めようとしました。ここで「決断」という言葉を使わないのは、決して断じること、つまり100%これだ!と決めたものではないからです。
さて、そこでこの11月に何を決めようとしてどう考えたのかを紹介したいと思います。
退職時期を決めた日
私は今月、退職する旨を会社に伝えました。その際に、12月で辞めるのか、それともほかの月で辞めるのか、決めるよう伝えられました。とっても優しい言い方でした。病院の相談員さんも同様のことを伝えられました。それは、決して誰かに言われて決めることではなく、自分で決めなければならないことでした。こういう風に書いていても苦しくなるようなものでした。なぜなら、私は他者評価で生きてきた人間だと自覚しているためです。もちろん自分で選んだ道もあります。一方で、他者の意見を捨てきれない自分が多分にあると思っています。
実は、休職前に父親より3月までは今の職場にいなさいと言われていました。それが頭から離れず、3月までいないといけないと縛っていました。もちろん、父親に対して悪いとは思っていませんし、むしろ自分のために言ってくれているのも理解できます。故に、3月という気持ちが残っていました。一方で、二つの選択肢に迫られた時、直感的には12月でした。ストレス源から離れることができるためです。心というのは本当に正直なのだと思います。ただ、正直だけでは社会では生きていけません。理由がなければ親は納得しませんし、次に職場にいく力にもならないと思えました。
人間の脳は、感情をつかさどる部分と理知的な感性をもつ部分があると言われています。私は、その二つの領域がぶつかり合っているのを感じました。ここで私は、「決める」ことが求められました。病院の相談員にもお伝えして、どう決めたらいいか尋ね、メリットを数えてみる作戦を立てました。
ある日、ビジネスホテルの1室をとり、ノートに向かって修行している僧のようにぶつぶつ唱えながらメリットを書き留めていきました。結果的に言えば12月でやめることのメリットが多く、一番は「日々にビビらなくて済む」メリットが強くありました。一方で、3月で辞めることは、年度末という社会的な強さがありましたが、次年度に向けて準備をしていたと考えれば解決しました。残ったのは父親からの言葉でした。この父親の言葉は厄介で、絡みつくように3月をおしてきます。一人で色々考えた先に、「3月末まで苦しむ私より次の段階を作る私をみてみたい」と思えました。
これが答えとなりました。
次の職場への足掛かりを作ろうとした
辞めることを決めた時、次の職場を考えました。そうして求人サイトを見漁った結果前回の記事のように、病院に曰く自分のペースを乱された状態となりました。もちろん、自分で自分の職場を探すことを失敗したとは思っていません。しかし、自分の心はまだそのターンではないといっているのかもしれません。前に職場で足動かなくなったように、自分が自覚していることが全てではありません。ただ、そうしているうちに頭がごちゃごちゃしてきたことが分かりました。その時、考え付いたことは「何のために」今動いているのかを一つ明確にしようと思いました。複数のことをやってしまい、ごちゃごちゃしていると感じたためです。そうして、ふと12月で辞めることは何のためか振り返ると「自由になるため」と思いつきました。そうしたら、「自由になるため」に職に就く必要が第一目標ではないと考えられました。失敗は成功の母といいますが、違った道に行ったからこそ、見えた価値観ともいえます。この「自由になること」は今の自分の指針であり、最大目標です。では、「自由」とは何か。次のセクションで持論ですが、述べたいと思います。
「自由」とは私にとって
指針が「自由になること」と思いついたときに私はこの「自由」を再定義することにしました。もともと自由とは、中国から伝来した言葉だそうで、中国では”思うままにふるまう専恣横暴(せんしおうぼう/権力や地位を使って自分勝手にふるまうこと)”、”他から制約・拘束を受けない”という二つの意味がありました。日本では前者の意味が強く残っており、デジタル大辞典では”自分の意のまま”にふるまうことができること。また、そのさま。”などとあります。英語ではfreedomと表現されますが、”free”はもともとゲルマン語の"friaz"から由来し、「束縛されている、愛されている」という意味があります。この愛するという言葉が奴隷に対しての「友人」といった解放への意味を込めて自由である"free"の語源となったと言われています。
これらをネットを調べて、興味深く感じました。中国での意味はどちらも捉えようでは真逆ともいえます。自由勝手に生きるさまと拘束をうけるさま。それが同じ言葉で使われることに興味がわきました。一方、英語でも愛することが語源となっているとは知らなかったですし、奴隷を解放するという考えからきていると思えば納得できます。
さて、これらを調べ、自分なりに解釈した自由とは「責任をもって自分の意のまま愛することに集中できる状態」「他から強制・拘束・妨害などを受けない状態」と再定義しました。愛することに集中するとは好奇心のある分野に向かうことを考えました。
では、今目指したいのは後者の自由です。そうしなければ、適応障害という病気とは相対することはできないと考えているためです。ここ最近、入院していた時が本当によかったなと思っています。それは後者の自由が約束されていたからだと今では思います。
こまちカフェを作った
勢いで作ったのがコミュニティ「こまちカフェ」です。参加してくれているのは一人だけですが、少しずつこのカフェが広がればいいなぁと勝手に思っています。先程、述べたように私は誰かを拘束したり、だれかに拘束されたりは極力しないようにしています。ただ、閑古鳥が鳴くカフェよりはすこしでもどなたかがいらっしゃることを期待しています。
〆の挨拶
久しぶりに長々と文章を打ちました。結論だけお伝えすると全く正解の答えはなく、ただ、自分が選んだかどうかがあるのだと思います。誰かに言われて、誰かの意思で動くよりは自分が選んだ間違った道の方が、私はいいと思います。この長文に付き合ってくださった心広い皆様へ、よい12月になりますよう祈っております!
それでは!