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人間関係に疲れたら

「まったく腹が立つ!」という出来事が多い理由

ある日、職場のナースSちゃんが、プリプリ怒りながらこんな話をしてくれました。

「A君と話していると、なんかいつも嫌な気分になって話が終わるんですよね。」とのこと。「何の話をしてもですよ!いつもですよ!」

何の話をしていても・・・ということなのだけど、いちおう一つ例をあげてみてくれない?と促すと、幾つかの例を話してくれたのですが、だいたいパターンは似ていました。

A君  「もうストレスが溜まって胃が痛いよ。」

Sちゃん「大丈夫?どんなストレス?病院には行った?」

A君  「どんな?って。どうして同じ仕事していて分からないの?まあ、そうだね。いいよ、いいよ。無理もない。誰にも分かって貰えないんだ。」

Sちゃん「・・・・・・・。病院に行った?」

A君  「こういう話をすると、皆病院へ行けって言う。君も皆と同じだね。

その他にもSちゃんが「こうしたらA君のストレスも軽くなるんじゃないかな?」などと仕事上でとても良い案を出すとA君は「凄く良いね。でも、実現不可能だね。」などと全発言を否定するそうです。

だからいつも二人は話し終わると互いに嫌ーーーな気持ちになり険悪になります。それと同時にお互い「?????なんで、いつもこうなるの?」とモヤモヤしていることと思います。

それはA君が嫌なやつだからだ!で終わらせるのも良いけれど、こういう体験を掘り下げて聴いてみると、大抵Sちゃんのような人には過去にもA君に相当するような何でも否定してくる人がいたりします。

また、A君にも過去の職場や人生でSちゃんのように「あなたをどうにか笑顔にしてあげたい。」と世話をやいてくれる人がいて、その人とのトラブルを繰り返して互いに嫌な気持ちになっています。

つまりは同じことばかりを、時と場所と相手を換え永遠と繰り返しているのです。

それは無意識にやっているゲームかも知れない

こんなふうに人がはまりやすい不快なコミュニケーションのパターンのことを、エリック・バーンが唱えた交流分析では”ゲーム”と言います。

上記は一例にすぎませんが、よく日常で見かけるゲームだけでも10種類はあり、エリックバーンは30種類のゲームを確認しました。

それをあげているとさらに恐ろしい長文になってしまうので、とりあえずそれは置いといて、何故わざわざそんなことをするの?ということだけは押さえたいなと思います。

誰もが気持ちが良い暖かいコミュニケーションを望んでいます。嫌われたり暴力を振るわれるよりは、褒められたり微笑みかけられたりする方が嬉しい。

でも、何らかの原因でこういったプラスのストロークに飢えた人は、むしろマイナスのストロークの方を欲しがるようになってしまいます。

誰もがゲームにはまってしまう理由

これも全部無意識の世界のお話なのですが、例えば現実的には充分愛され大切にされていたとしても、本人が虚しい、寂しいと感じていればストロークが不足している!と脳が判断してしまうんですね。

実は人はストロークを交換するために交流しています。

一旦飢餓状態だと思い込んだ以上、その心の隙間を急速に埋めて貰うには優しいストロークでは間に合いません。

身体が食べ物を欲するのと同じくらい心はストロークを欲するものなので、慌ててインパクトの強いストロークを欲しがろうとします。

極端に言うと、嫌われる、殴られる、全否定されるというようなマイナスのストロークの方がインパクトが強く、良くも悪くも心をいっぱいにすることができるので。

寂しいとき、虚しいとき、人はゲームにのってくれそうな人(優しいい人、同じ虚しさを抱えている故にゲームに付き合ってくれそうな人)を見分けてゲームを仕掛けます。

ものの本では、よくA君の立場を”ゲームの仕掛け人”と呼び、Sちゃんのような立場の人を”カモ”と表現するのですが、私はどちらも仕掛け人なんだよなあーと思います。

”キックミー(私を嫌ってくれゲーム)”と”あなたを何とかしたいだけなんだ(世話焼きゲーム)”。

10種類あると書きましたが、人は成長の過程で得意なゲーム(比較的たくさんやって来たゲーム)があり、そのゲームの相性によってみるみる引き寄せられ人間関係が成立するなんてことがあります。そして二人は嫌な気持ちを味わいながらも実は内心喜んでいたりします。何せゲームは白熱しますから。(だから自分だけでは止められない)

もちろん悪ではありません。エリック・バーンが提唱したように30種類以上もあるのだとしたら、そりゃもう人間の行動パターン全部があてはまっちゃうじゃん。どうしたら良いんだよ?と当時学生だった私は、ケチばかりつけていました。← このケチつける時こそがゲーム的心理だった。(笑)

もしもゲームを止めたいと思ったら

ゲームは人間関係を壊す後味の悪い交流です。誰もが多かれ少なかれ自分の無意識のゲームパターンに気づくまで止められません。リアルな関係でもネット上でも強い魅力があり炎上しています。

幼い子が好きな女の子に意地悪するとか、親御さんにダダをこねるとか、そんな単純でかわいいゲームならばまだ良いのだけど、成長するにつれ複雑化して自分でも何をやっているか分からなるという悲劇があります。

例えば教師のお子さんが不良になるとか、警察官のお子さんが犯罪を犯すとか、消防士の息子さんが放火するとか。

何故なら、それくらインパクトのあるゲームをすれば相手の心のシミになってまで、いつまでも強く激しく覚えていて貰えます。

ゲームには、そういった本人も気が付いていない無意識の目的があるので、とてもじゃないけど、表面的な理由をつけようとしても辻褄が合わないことが多いのです。

人生脚本は好きなように書き換えられる(いつでもどこでも)

ましてや、幼い頃から書き始めた人生脚本の内容が「私は愛される価値がない。私も存在価値がなく、世の中もろくなもんじゃない。」となっていれば、その考えを強化するためにゲームをします。

もしかしたら、脚本的に悲劇を強化しているのだとすると、愛される度、親切にされる度に慌てて元の筋書きに戻すために激しいゲームをするかも知れません。

色々な人との出会いというのは、本当は色々な素晴らしい脚本に触れること。だから、本当はゲームなどせずに「良いなあ、その一小節。こちらの脚本にもそのエッセンスを取り入れよう♪」ってことにしても良いですし。

はたまた「うわあ、それは何だかダサいなあ。真似したくないなあ。」という出会いだったら、素直にそう感じて閉じても良いし、色々な自由があります。

とは言うものの、これを学んで来たカウンセラーさんたちですらお仕事やプライベートでよくゲームにはまります。もれなく私もその一人です。

でも、気が付いているのですぐに止めることが出来ます。

誰もが自由なペンとノートと持っている

後味の悪い交流を止めるには、まず気が付くことが第一歩です。

そして、自分自身がゲームをしがちなのはどんな時か?と気が付くことです。

ゲームをしがちなのは、無意識がどこか不満を訴えているとき。そんなときは立ち止まって自分の声を聴いても良い。はたまた大切な誰かに聞いて貰っても良いでしょう。

そんな自分や誰かとの交流はゲーム的交流とはまったく別物で自ずと大切にしたくなるし、思いやりさえ忘れなければいくら求めても良いんです。

もしもそれが不足しているように感じたらこれからいくらでも作れるのでしょう。

大丈夫です。出来ます。だって、これまでゲームに注いでいた分のエネルギーを全部、好きなように、面白く生きる事の方に発揮できるのですから。

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