信じることと 信じて貰うこと

今夜、山田哲人の一振りで待ちに待った快音が響き渡った。

勝利は嬉しいことだ。勝利は大変なことだ。それは、とても難しいことだから。
しかし、勝てた日も彼の表情を見るとどうもスッキリしなかった。多くの人がきっとそう。
ましてや私なんぞより熱いファンの方々は本気で激怒する人もいた。

相手チームの杉本も然り、かつてのイチローもそうだった。

素人であればあるほど、見ている分には「どうして?」と本気で思う。あれほどのパワーとテクニックを持ったプロ、あれほどの修羅場を潜りぬけて来た選手が何故突然そうなってしまうのか?
素人であればあるほど、強く思う。せめて当てれば良いんだよとか、どうして固まってんの?とか。

素人に分からないのは当然として、実は本人すら分からない。何故今自分がこうなってしまっているのか?と。何故?どうして?と考え込む。
その流れにハマると、考えれば考えるほど分からなくなる。色んな違ったことを試してもみる。

その状態というのは、ある意味うつ病と似ている。
周りも本人も理論で解決しようとして、へとへとになったり、ある時はどうでも良いと投げ出したり、怒りや悲しみや裏切りを経て、プツンと何も感じなくなる瞬間が増えて来る。(実はこの何にも感じない時間というのが一番苦しいのだけど。)

その時、周りもまた色々なことを言う。メディアもファンも球団関係者も先輩も後輩も、色んなテンションでストロークを投げかける。

普通のファンである私としての危惧は、プロの世界だから切られてしまうのではないか?ということだった。何だったら、打てなくても居て欲しいくらいだから。

そんな状況なので、本人と同じくらい、彼を起用する監督にも色んなストロークが飛んで来る。「何やってんだよ、早く変えろよ。」と叩かれること多数。

ところが監督は一貫してこう言い続けていた。「まあ、そのうち打つでしょ。」と。

もちろんそれで済むわけがなく、あの手この手で言及されれば、少々長めの回答もする。「振りは悪くないんですよ。」とか「いやあ、動きは悪くないですよ。」とか。

そして、最後にはいつも「まあ、そのうち打つでしょう。」。

その様子を見ていて、へえ~と思った。これがうつ病の友人や家族の理想的な対応にも似ていたのは、決して偶然ではないのだろう。

もう一つは、プロにしか分からない感覚というのがあるのだろう。それは、なかなか理論では説明できないのだ。どんな立派な解説者がついて、打てた理由、打てない理由を並べ立てても、言葉では説明できない直感の世界というものがある。
その世界で「彼は大丈夫だよ。」と感じていることを言葉にするのは到底不可能なのだろう。

今日、快音が響いた。スタンドは総立ちになった。おそらくは散々なことを言っていた人々も拍手をする。

まだ彼に笑顔は戻らなかった。
もう何度も地獄を見たからなのだろう。

まだ夜は明けないのかも知れない。厳しい冬が続くのかも知れない。

あの若き4番選手のように、赤子のような大笑いは出来ないのかも知れない。
でも、彼もあの人も彼女も、今辛い人も、やがて知る。

怒号する人もいる。分からない癖に罵倒する人もいるだろう。調子が良いときばかりチヤホヤする人も居るだろう。犯罪を犯したわけでもないのに心ないことを言われることもある。

でも、彼らは、私たちはやがて知る。

それらと同時に、確かに存在していた。確かに自分を見守り愛してくれていた人がいたのだと。
それを知れることは、やはり価値あることなのかも知れない。

あなたはやることをやって来た。
だから、(必ず)そのうち(そのままで)良くなるよ。
と言うことを。

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