快と不快&光と闇(脅されても臭いのは無理という話)
はい。で、また相方がウォーキングデッドを観続けている。とうとうシーズン10になっていた。
数分間のちら見で語って申し訳ないのだが、その数分間も積もり積もって山となる。シーズン10ともなれば尚更。
驚いたことに新興宗教的な民族が出て来る。『死んでもずっと一緒にいられる。』とか『死者として暮らそう。死人は希望を持たないし喋らない。声をあげない。それが自然なことだ。悲しみも絶望もない。』とか。
それはご勝手なのだし、その生き方で良しとする人も居るかも知れないが、人は光を求めるもの。
光を求めて集団を抜けようとするものを殺したり恐怖で支配し続ける。ところが、我が娘や、他の仲間は見てしまった。そんなことをしなくとも光の下、暖かいところで笑って豊かに暮らす人々の町を。
『あれ?おかしいな。死人として生きるしかないって教えられたのに、何だか大丈夫そうなんだけど?』と疑問を抱く。
教祖的存在の女性は、世に言う毒親で、薄々分かっている。暗くて臭い生活を送りつつも、そうでない世界があるということを。
ただ失望するのが嫌だから『あれは幻想だ。』と自らに言い聞かせ、他人にもそれを強いる。
この他人にも強いるというところがミソ。大きな歪みと無理を生じさせるやり方だ。
娘を虐待して育てていたこの女性もまた虐待の被害者だった。だからと言って許されるわけないのだが、世の中、真っ暗闇だと思い過ぎるのも不自然だし、またその逆で頭の中がお花畑という人たちも不自然。
逆境が人の心を固く極端にさせるのかも知れないが、『一緒にやっていける人とやっていけない人がいる。』という、ただそれだけの事実だ。
幸せな現実のことを『幻想だ!』と思い込もうとするという逆バージョンの歪みといびつさがよく表現されている。
が、やっぱり暗くて臭い、声も出せない、意見も言えない世界を人に強いるのは×。そりゃ、どんなに脅しても、皆出て行くし離れる。裏切るわ。
死人として生きているので感情がないと言い張っていた当人が、一番人が離れて行くことに逆上しているという矛盾。
社会と新興宗教の違いがどう描かれていたか?というと、作り上げようとしている社会は守り合い愛し合う社会。新興宗教のそれは、見張り合い、束縛し合い、脅しては絶対服従を強いる世界だった。
これは映画の世界だけなくあり得る社会の縮図かも知れない。
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