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今週のBookReview

plateau books今週のブックレビュー閲覧ランキングまとめです。webページのリニューアルしましたので、あわせて閲覧ください。plateau books HP ▷こちら 

1位 スガダイロー 『ピアノ曲集 季節はただ流れて行く』 (VELVETSUN PRODUCTS、2018)
2位 大崎清夏 『新しい住みか』 (青土社、2018)
3位 今和次郎 『思い出の品の整理学』 (平凡社、2019)
堀江敏幸 『戸惑う窓』 (中央公論新社、2019)
細川亜衣 『朝食の本』 (アノニマスタジオ、2019)
宮沢賢治 画:佐藤昌美 『雪の童話集』 (童心社、1978)
九螺ささら 『きえもの』 (新潮社、2019)
福永信 『実在の娘達』 (仲村健太郎、2019)
鈴木了二 『ユートピアへのシークエンス』 (LIXIL出版、2017)

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スガダイロー 『ピアノ曲集 季節はただ流れて行く』 (VELVETSUN PRODUCTS、2018)
ある季節にはこれだという曲があって、その時期に街中に行けば、いやというほど耳にする。たいていは、歌詞やタイトルに、季をあらわす言葉が使われているだろう。でも、そんな音楽たちとは、まるで関係がないかのように、季節はあっという間に流れて行ってしまう。季節のめぐりは、暮らす環境も、見せる景色も変えて行き、そこから生きものたちは、たくさんの刺激を受けている。ひとつの年をいくつかの節に分けたのは、ひとの恣意かもしれないが、分けたことで季節が見え出す。季節と寄り添うことができる。節と節との間から、また、あたらしい音楽が聴こえはじめる。


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大崎清夏 『新しい住みか』 (青土社、2018)
いろいろなものが、日々更新されていく。行き着く先がどこだか知らずに、乗り換えをし続けている。だから、変化しているとは言えないのかもしれない。ほんとうに新しいことには、たくさんの抵抗勢力がいる。いまのままでいいんだと、ぐいと引っ張られ、せまいところに押し込まれてしまう。どうしてこのままなんだろうかと尋ねても、返ってくるのは人間の理由。だれもが心地良い場所はむずかしいけれど、探していた土地ははじめられる。いたるところに凸凹はあっても、平らだから安心できると、そう思っている。

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今和次郎 『思い出の品の整理学』 (平凡社、2019)
年のおわりには、身の回りの掃除や片付けをして、要らなくなったものを捨てる。ちかごろ、物をたくさん持っていることはあまり好まれることではなく、不要になればどんどん捨てることが勧められているから、迷うなら要らないだろうと判断して、ますます物を減らさなければと考える。要と不要が肝要なのだ。いまという時間は、ありとあらゆることによって、かたち作られている。全く無関係なものなんて、あるのだろうか。いまが堆積してできた思い出は、「要、不要の圏外」にある。分別がつく人格なんだからと、物も記録も、次から次へと手放すうちに、大切なことまで失なっているのかもしれない。

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堀江敏幸 『戸惑う窓』 (中央公論新社、2019)
窓のない家はほとんどないが、窓が付いていても窓を感じられる家は少ない。どこにでもあるサッシを開けても、見えるものからこれといった感情を掻き立てられることもなく、その壁の穴を意識することもなくなって過ごしている。本当は、隔てられているはずのものが結びつき得る、不安定なところにもかかわらず。たとえとしての窓も、現実にある窓も、等しく並んで見えてくると、行為のベクトルが通り抜ける、その通り道で立ち止まることができるのかもしれない。ひとが描いた景色、自分が覗き見た光景、吹き込んできた風、漏れ出た灯。どの窓の前で、佇んでいるのだろうか。

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細川亜衣 『朝食の本』 (アノニマスタジオ、2019)

朝も昼も夜も、食事は毎日のこと。それでもそれぞれの過ごす時間が異なるから、食事の性格も違っているように思える。1日のはじまりとなる朝は、仕事の日はあわただしくも、休みの日はのんびりとしながら、あらゆることのきっかけとなる時間になる。そしてきっと、だいたいはいつも食べるものを口にする。「いつも」だから、別のあり方にも憧れる。主食となるもの、それを華やかに味付けたり彩ったりするもの、ある場所や季節だけのもの。朝食を、楽しみ続けることが、できているだろうか。

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宮沢賢治 画:佐藤昌美 『雪の童話集』 (童心社、1978)

雪が降れば、たちまち景色は変わってしまう。どしゃぶりの雨のなかでも、いつもの場所があっという間に流されて、違うところに来てしまったかのように感じるが、あくまでもそれは一時的だと了解している。いつからか振り出した雪は、ただただ静かに降り積もり、あらゆるものを、等しく、真っ白く包み込む。まるでずっと前から変わらない景色を見ているよう。聞こえてくるのは、風の音か、あるいは生きものの息づかいだろうか。こうしてようやく、こことあそこが、同じひとつの場所になって、交わりがうまれる。

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九螺ささら 『きえもの』 (新潮社、2019)
いま有るものは、いつかは消える。果物や動物の肉は、捕食されてしまえばなくなるし、食べられなくたって、時が経てば死に、朽ちる。それはわたしたちだって同じだろう。かといって、物質ではない言葉が、まったく消えないものかといえば、そうではない。話し、聞いたことはすぐに忘れたり、伝わっていくうちにまるで別物になったりする。書かれた文字は、結局は物質である以上、風化を逃れられない。そんな消えるものたちの、形、食/触感、名前の持つ音…、それらのひとときの同居が見せてくれる情景は、どこか見覚えがある気がする。もしそうなら、情景は消えずに残ると言えるのだろうか、あるいは、はじめから幻を見せられていたのだろうか。

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福永信 『実在の娘達』 (仲村健太郎、2019)
会ったことのないひとでも、たとえば写真を見れば、そのひとは存在する、と感じる。物語に登場するひとびとだって、ここにはいないと知っていながら、もうすでに確かさをもってそこにいる気がしてしまう。たとえ時代も場所も、自分とはあらゆることが異なっていても、あるということをきっぱりと否定することができなくなる。読書には、ある程度の時間がかかるからだろうか。長い時間をともにすれば、そのひとの存在感は増してくる。本を閉じても、そのひとを考えているときがある。でも、ほんのわずかな言葉しか与えられず、だからほんのすこしの時間しか共有しなかったはずだ。それにもかかわらず、娘達は。

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鈴木了二 『ユートピアへのシークエンス』 (LIXIL出版、2017)
近代建築というと、どこかすでに歴史の内容で、教科書のような感じを受けやすい。著名な人物に、お決まりの作品や言葉が並んでいて、それを知って建築を見ても、建築は何も語りかけてきてはくれないのではないかと。でも、その予想は裏切られることになる。建築のまわりを、内部を、歩きまわっているいま、それはきっと確かなこと。そこに、時代の、作られた過程の、複数の時間が重なり合ってくる。聞こえてくるのは遺された声かもしれない。何も聞こえないのに騒がしい場所から、静かなのにさんざめく時へと。


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