今日は文化の日。。。
積読だったボードレール『人工楽園』(角川クラシック文庫)を読んでます。奥付によれば平成8年6月20日の第7版。
どこでなぜ購入したのか覚えていない。平成8年といえば1996年だから俺はすでに神戸にいて、期間限定で復刊された小林秀雄『ゴッホの手紙』みたく、八重洲ブックセンターで購ったんではないのかも。
本書は酒に阿片、アシューシュ(Hashish。フランス語というかラテン系言語では〝H〝を発音しない)など、ドラッグ類を半ば賛美しつつ書いたエセー/評論。自分はしかし、高校時分に月刊プレイボーイで三島由紀夫『太陽と鉄』関連の記事と併せ
「レタスの芯を黒焼きにしたの食うとトリップするらしいですぜ」
を読んだ時くらいしか(しか?)ドラッグに興味を抱いたことはない。
不良のマストアイテム、アンパン=シンナーですら吸うたことはないですよ。いや、あるか。
ここまで書いてて思い出した。関西といえば中島らも。彼の名作『アマニタ・パンセリナ』と『今夜すべてのバーで』 ー 前者はありとあらゆるドラッグ体験記、後者はアル中体験をもとに著した切ない小説 ー に耽溺、その流れでボードレールの本作を、神戸のジュンク堂で買ったんだった。
自分でしないし行ったことないあれこれを、追体験できるのが文学の良かポイントのひとつ。
『人工楽園』の構成は、
1、個性を倍化する手段たる、酒とアシューシュとの比較
2、人工楽園 ー 阿片とアシューシュ
3、アシューシュの詩
4、阿片吸引者
5、補遺
ご承知のように俺は音楽好きであるから、1、から少し引いてみよう。
「神の如きホフマンの『クライスレリヤナ』を開いてみると、奇妙な勧めが書いてある。良心的な音楽家たるものは、喜歌劇を一曲作るためにはシャンパーニュ産の酒を用いねばならぬというのである。作られる曲の性質上当然必要な、泡立つような、軽やかな陽気さが、この酒のなかに見出されるわけなのであろう。
宗教音楽には、ラインあるいはジュランソン産の酒が入用だ。深遠な思想の奥底におけるが如く、酔わせるようなほろ苦さがあるからだ。それはそうと、雄壮な音楽には、どうしてもブルゴーニュ産の酒を抜きにするわけにはゆかない、この酒には、愛国心の赤誠溢るるばかりの激奮と曳き摺りこむような力とが具っているというわけである」
自分はワインに詳しくないのでそれぞれの味はわからないが、例えば楽曲制作にあたって「合う」酒を仕込むのには首肯できる。これはストーリーと音との関係にも似ていて、手前味噌だがコレ
なんか、まず音から入って筋をデッチ上げたもの。※ 文中にある『タンザナイト』も同様。
音に合う話を作るのは〝酒に合う楽曲〝を作るに等しい。逆もまた真なりで〝楽曲に合う酒〝となるのも宜なるかな。
また、小林秀雄が
「あまりに速く回るコマは止まって見える」
と言ったのは、もとより彼が大酒飲みゆえ酔っ払って脳を高速回転させて『様々なる意匠』以下の名作をものし、勢い余って水道橋駅のホームから転落した体験によるところが大きいだろう。
ボードレールを続けます。
「ホフマンは、自分の精神のさまざまな気温やら大気現象やらが判るようにするための奇怪な心理学的気圧計を一つ調整したことがある。これには、次のような目盛りがついている。
『寛大さで和らげられたちょっと皮肉な気持。ー 深い自己満足を伴った孤独な気持 ー 音楽的な陽気さ。音楽的な熱情、音楽的な嵐。自分で耐え切れない嘲弄的な陽気さ。自分を脱出しようとする渇望。極度の客観性。自我と自然との熔合』申すまでもなく、ホフマンの精神的気圧計の区分は、その発生順によってきめられたものであり、普通の気圧計と同じわけなのである。この心理的気圧計とさまざまな葡萄酒の音楽的性質の説明との間には、明白な類似性があるように思う」
年を重ねて自分もまた精神状態を調節()できるようにはなった。だがそれは所詮「忘れる」いや、「忘れようとする」の謂。元来激しい気性の自分が、ただそれを隠す術を覚えたに過ぎない。
酒も音楽も、もしかするとその調整弁なのかもしれない。しかし極めて重要なのは、上記「自分を脱出しようとする渇望」から逃れられず、ゆえに読書し音を聴き、できれば創作を通じて新たなワールド
「ここより他の場所」©️大江健三郎
に至ろうとする、そんな試み。
※ 鬱が高じて福岡の実家にパラサイトしていた20年前「だが自分は自分から決して逃れられない」、そう痛感したから尚のこと。
とまれ良き文学は、ものを考えさせる。演劇・絵画もまた然り。
こんな本日、文化の日。。。
ーーー
誰よりも自分にバイバイせむとする、ルーサーさんを何度でも。
◆I Really Didn't Mean It
https://youtu.be/7nJKzjNYgGM?si=IZBRI93BPN4ESTCu