9年後、30歳の僕に褒めてもらえるように
気が向いたからNote書いた。中途半端な人間である自分をつらつらと書き記そうと思った。
途中で筆を置いた。
やっぱり向いてない。
なんの芯もないわがままな人間だ。一つのテーマについて偉そうに主張するなんてことできない。
自分の書いた文章が、21歳の餓鬼によるただの喚きでしかなくて、見返した時に反吐が出そうだった。
何も血の滲むような挑戦もしてない、やりないことだけやりたい、やりたくないことはやりたくない、だなんてほざくような、何にも成し遂げてないような、もしくは成し遂げられずに挫折したことのないような人間が面白い文章なんて書けない。絶対に。
もし全力をかけて書いた文章だとしても、それはいくらでもこの世の中に存在する文章になる。それはこのNoteも然り。
自分と同じく、世の中の多くの人は、ヒーローにも奴隷にもなれなかった人間であるのは周知の事実だ。
今の自分に必要なことはとにかくもがくことだ。自分の才能の無さに対してもがき続けることだ。やりたいと思ったことが、自分が欲しているようなレベルに達しないと気づいた時にもがき続けることだ。若さとはそういうものだと思う。30歳の自分がいたら、「うるせえ黙れ」とぶん殴ると思う。21歳の僕もうるせえと言いたいところだが、所詮僕は石ころの中に埋もれた石ころだ。何にも言い返せない。
腹が立つが、やはりそのもがくというのはエネルギーが要る。我慢が要る。その道のりはとにかく辛いものだと思う。
僕が尊敬するF氏が言っていた。
「2億円貰っても20歳には戻りたくない」
ホッケーの教え子の9歳の男の子がレッスン中、現実世界が思い通りに行かないことばかりであるというのに気づいた瞬間の顔を思い出す。僕は9歳に戻りたくない。同じく30歳の僕は21歳に戻りたくないだろう。
嫌だ。本当に嫌だ。現実というものを叩き込まれるのが本当に嫌だ。どんだけ荒波に晒されて終わって、少しだけ味のあるガムになったことを想像したとしても、やはり荒波が怖い。
なんて文章もいくらでも存在する。所詮今の僕はちょっとだけ角ついた石ころだ。
今の自分が嫌だという自己破壊、そして没頭できるものへの執着、エネルギーの源泉はそこにしかない。
とにかく目の前の感情を追う。
目の前の波に対してどう動くかだけを考える。
目の前の1日1日をどう生きるかだけを考える。
遠い未来のことは考えない。辛いから。
スポーツをしていて気づいた、少しだけ重要なことは、キツいトレーニングの終わりまでの回数・時間を考えていると、その間が非常に長く感じる。
しかし目の前の一つ一つにだけ頭をフル活用していると、いつの間にか終わっている、なんてことがごくたまにある。
なんだろう。全く前を向くような文章を書くつもりは無かったんだけどな。書いてたら何故か前を向いているような気がしていて気色が悪い。文章の力なのか?それとも自分の根本はやはり前を向いているのか?
自分はサゲだと思っていた。好きな曲は大体サゲている。弱い人間であることを少しだけ誇りに思っている節が1%だけある。強い人間になってしまうこと、もしくは何かを成功した人間になってしまうにつれて「弱い人間である自分」を失うこと寂しさについてよく考えるほどにはサゲだ。
でもこのNoteの締めに、自分への喝を入れる文章を書こうとしてしまうほどには前を向く性分があるらしい。
もしかしたら、サゲな曲な好きなのは、自分の性分とは遠く離れた人間の感情が抽出された作品だからなのかなと思う。
弱い人間だけど、弱くもありたいし、強くもありたい。弱さと強さを共存させたい。
もがいてもがいてもがきまくれ。そしてたまに泣け、と30歳の僕が言っている気がした。
30歳の僕はこれ以上の何かを言える人間になっているかな。
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