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『アスペル・カノジョ』(1)ネタバレあり感想

 『アスペル・カノジョ』第1巻ネタバレあり感想文です。(画像、お借りしました。ありがとうございます。)

はじめに

 『アスペル・カノジョ』がKindleで3巻まで無料になっていた。これまでずっと気になってはいたけど、事前情報で下手したらダメージうける漫画かも、と足踏みしてしまい未読でした。(自身の統合失調症やパーキンソン病の症状や辛いことなど、自分に重ねてしまってしんどい思いをしてしまいそうだなという意味で)障がいの実態に迫る作品はとっつきにくくて、なかなか踏み出せずにいたので、良かった。

 まだ1巻読了時点の所感なのですが、いつもの通り始めに一言で感想をまとめると「ショッキングなシーンはあったけど、読んでよかった」です。本当はお金を払って作家さんに貢献したいけれど、無職者ゆえ、かたじけない…とありがたく無料で読ませていただきました。無料キャンペーンは、文化に触れる数少ない機会なのです。ありがとうございました。

 ネタバレありです。ぐたぐた語ってるだけの感想文なのでその点どうかご了承ください。ド長文です。長すぎるので巻ごとに分けました。

第1巻感想

 まず1巻から。原作・萩本創八、漫画・森田蓮次(敬称略)。おお、原作があるのですね。それすら知らなかった。

 1巻読んで思ったんですけど特定の障がいや病気の名称が出てこないですね。良いと思いました。タイトルにはまあ、あるんですが、作中で診断名を出すと認識が「斉藤さん」じゃなくて「◯◯障がいの人」になっちゃう。たぶん。個人を見つめる、という視点を感じて優しさ…?というか、いや、本質を描こうとしている作者さんなのかな、と信頼感が増しました。時間の流れとともに障がい名や病名は変わっていくから、というのもあるかも。特に発達障がいや精神病、皮膚の変質や部位の変形など見た目に関わるものなどなど…は、社会にどう扱われているかが名称に現れやすい。いや、2巻以降でサラッとでてくるかもしれませんが。

 1巻は、内容をじっくり噛み砕きたいために何度も読み返しました。下水星人さんこと横井さん、アポ無し訪問にもNHKかなとかぼやきつつ出るんですね。男性でも危なくないですかとつい突っ込んでしまった。いや、物語が始まらないから仕方ないけど。メールフォームなり何なりからまず感想を伝えて…ってする斉藤さんじゃないし。斉藤さんもどんな「人間」なのかも(同人誌から強烈なシンパシーを持っていたとはいえ)わからないのに、その人の部屋に上がり泊まる、という決断がなかなかに危なっかしい。まずそういうひとたちの話なのだな、と理解しました。どういう行動基準のひとたちなのかを最初にざっくり示してくれるのはありがたい。

 そういえば、斉藤さんの特徴的なハイライトのない真っ黒な目。身体的な特徴として目を選ばれたのも良い判断、と勝手に思いました。ちょいとズレますが、統合失調症診断の際の古い用語で「プレコックス感」というものがあるらしく(ググってください)患者に対して健常の人が抱く「なんか統失患者っぽい感じ」のことらしいんですが、医者でさえそういう曖昧微妙な言葉を昔は用いた(…かは実際わからない、とにかくそういう言葉は存在した)くらいですから、絵で「斉藤さんの・彼女自身のそういった印象」を表現するのは、超絶技巧だと思いました。差別的にならない印象操作(ここでは表現力の意)ってすごく難しいのでは、と素人ながらに考えるのです。

 ただ本作、やや画面映えを意識している感じはあるなと思いました。女性の裸体がどうこうじゃなくて、容姿の面で。美男美女(とは作中で言われないけど、顔面のパーツ位置が平均値に近いといったらいいのでしょうか、フィクション的にも美形の範疇なのでは)でないと、読者に興味も持ってもらえないのかなあ…というもの悲しさはありました。外見至上主義とまでは言いませんが、もう少し崩した感じでも自分はきっと好みでした。とはいえ絵は綺麗で読みやすく、が読者に親切であるのは理解します。バランス感覚の良い漫画だなあとは思いました。

 内容については、書き始めると長いのでざっくり言うと壁紙と特殊嗜好のくだりが良かったです。ヘキを知るとそのひとを一気に身近に感じる。たぶんたいていの人にとっては、最大の秘匿事項ですからね。自分もおぼえがあります。でも無理矢理聞き出されたのはかわいそう。笑っちゃってごめんなさい。そりゃ泣くのもわかる。わたしは特に引かなかったです。まあそれくらいの性的嗜好のひとはその辺にゴロゴロいるでしょう。笑ってしまった罪滅ぼしです。ごめんなさい。女性がエロ同人を読むというのもよかった。いろんなひとがそこら辺にいます。

 犬と銭湯の件はしんどいので細かく書きませんが、「知り合ったばかりの人付き合いで、突発的行動には(特に別行動中)個別に適切な対応ができなくても仕方ない」の例としてあって良かった。実際、自分だってこんなことになったらどの立場であれテンパる。客観的視座を欠く。明らかな他害行為、示談の手法も言及される通り決して好ましくはないんだけれど、ちゃんとこういうことが起こり得ると描かれていることが誠実でした。その分、作者さんが本作を作品として仕上げるまで相当しんどかったであろうことが想像されます。

 犬を…蹴る、というのは、漫画でも映画でもなぜか多い印象です。『ジョジョの奇妙な冒険』でもディオがいきなり犬を蹴るけれど、ジョジョと本作ではその行為の意味合いは当然まるで異なる。『アスペル・カノジョ』の登場人物たちは悪人ではなく、極めて現実的・隣人的だからショッキング度が高いです。弱きものからより弱きものへ、言葉なき動物や口達者でない子どもへ暴力が向かってしまうことを示唆されているようでもあった。

 もちろん、犬小屋に入れられたトラウマがあろうと、子どもにぶつかられようと、手や足が出るのはいけないことです。でもどうして動物虐待や暴力に至ってしまうのかを考えなきゃいけない。そこで斉藤さんのようなひとを見捨てることを『アスペル・カノジョ』はしない。こいつは出しちゃ駄目でしょ〜とか言って、退場させない。そもそもこういった事情や実情を示すために意識的に必然的に「不適切な言動」を描かれるんだと思いました。いえ…本当全部勝手な想像です。ぜんぜん違うかも。ちなみに、他の人の感想は、具体的なものは読んでません。原作者さんや漫画家さんのSNSやら何やらを探すとかもしてません。だから他の人の解釈も知りたいです。それにしても本作に限らず、なんでフィクション作品で痛めつけられる動物に犬が多いのだろうか。他の動物にしろって意味じゃないですよ。ただ無意味に悪趣味に虐げるだけの描写は好みません。斉藤さんには意味も理由もあった。だからショッキングだが、「不適切な行動」の例として描かれた。言葉をもたない存在が痛い目に遭わされるのはしんどいので、何度も自分に言い聞かせています。自分が中学生の頃、幼い弟に手を上げてしまったときの加害意識があって苦しくなる。

 話を戻します。もしかしたら、というよりかなり、犬と銭湯の件で斉藤さんのことを「うわ、無理」と嫌いになった人も居るかもしれません。わたしも、状況に居合わせただけなら「どういう神経してるんだ」と思う。思ってしまう。

 ただ現実に自分がパニック起こして奇行に走ることもあり、自分が混乱して不安で苦しい時に「変な奴がいるよ」とは言われたくない。でも当事者は取り囲まれて責め立てられるプレッシャー下で、自分のことを説明しにくい。障がいや病気のことは大勢の前で話しにくくて躊躇われるし、話したら余計状況が悪化するかも…。斉藤さんの場合は初めから何も言う気はないように感じられました。意思疎通拒絶の態度。医者は自閉傾向と書くかもしれませんがこの文章は間違ってもカルテのつもりで書いてなんかいない(笑うところです)、斉藤さんの意思としての拒絶と受け取りました。

 急に事態を知った横井さんが対応に困った立場もまた、理解できる。どうしたら付添人として当事者を理解してもらえるのか、言葉は咄嗟に出てこないし、相手にしてみれば一方的に被害を受けたという認識だから、当たり前に理不尽に感じるだろう。これも分かる。対応に困る。(ただ銭湯の親子はなんていうか、あちらも常識が一部欠けていそうというか、素行が悪いふうに描かれていて、言葉にしづらいところはありました。子どもの危険行為(銭湯で走って他人にぶつかる)を止めなかったのは良くないし、髪の毛つかんだら暴行し返したことになりますよ。…だからって斉藤さんが正当化されるわけではなくて、本件は難しいところ。誰もニュートラルな立場で介入できる人がいなかった。)

 自分の感情としては強いて言えば本件(事例)を読んだ人と、この「困る」感じを共有したい、でしょうか。福祉の現場では個別支援計画・ミーティングは時にはスタッフだけでなく当事者も交えて、「あの時どうしたらよかっただろうね…」と話し合いを重ね対処方法が変化してゆく連続です。終わりはない。

 いわゆる揉め事やトラブルを起こす、ということを、福祉業界でも「問題行動」と呼ぶ時代があった(今も個人や組織によってはあるかも)。「しかし問題があるのは彼らではない、この狭量な社会とうまく噛み合わないことを問題とされているだけ、そういう言動をしてしまって困っているのは彼ら自身なのだ」と自分は教わり、その時の自分はそれに同意しました。今も概ね同意です。ただ、支援は限界があるから社会も変わってくれよと切に思う。福祉業界側が訴えたり、体質を改善したりする余地もまだまだまだまだあると思います。

 細かく書かないと言いながら冗長になってしまいました。反省。

 というか、こういうことが続いて、福祉課なり支援団体に頼ったりということはしないのかな、とふと思いました。一個人で人間ひとりのいのちを支えるというのは、精神的にも実質的にも負担が大きい(自傷癖があるならなおさらもしもの時に責任もてるのか、ということ)。現実的には、斉藤さんが他人に会いたくなければそれでもいい、横井さんだけでも専門の第三者に相談するなり、そういう描写があってもいいなと思いました。人と組織によるとしか言いようがないですが、よっぽど門前払いはされないはずです。役場だと鳥取と東京じゃあ管轄が〜などと言われそうですが、それならそれで相談にのってくれるところを紹介してくださいとか、あってもよかった。

 個人同士のコミュニケーションを主軸に扱う漫画だから、とはいっても、でも、やっぱり一人きりではいろいろ難しい。上記のように判断しきれないことは出てくるし、相談できる誰かがいることは確実に安心要素。斉藤さんにとっても横井さんにとっても、他人と関わるのが難しい・つらいからこそこういう状況になっているのは分かるのですが、現実を生きる読者に対して、「福祉に頼る選択肢がありますよ」と示唆してほしかった、1巻の時点で。早ければ早いほど良いから。

 話が変わります。好きな場面。具体的に挙げると、165-166pの横井さんの対応が、特に圧巻。比較対象がポンコツ職員だった頃の自分だからあれですが…。必死だったのでしょうが、専門福祉職でもない人で、こんな迅速的確な対応できるってすごすぎる。目が傷むから服の袖で目を擦らないように、右手でコップ持って、次に左手で蛇口ひねって、こうやって何回呼吸して、なんて、とても移動しながら出てこない具体的指示・配慮の言葉です。1巻時点ではさほど語られていないですが、横井さんもいつかは服の袖で涙を拭ってしまい瞼を腫らしたのかもしれない、と想像させられました。

 自分語りじゃないですが、抱いた感想とは切り離せないことなので、やや私的なことに触れますね(今更ですみません)。フェイクは入れてます。前の職業柄、障害支援区分で最重度にあたるひとたちと暮らす、寝食を共にするという日々を送っていたので、「えっ、こんな些細なことでパニックになるのか」と、当時は精神疾患を発症していなかった自分は毎日ビックリしていました。5年も経つとたいていのことでは動揺しなくなりました。でも5年かかっている。横井さんは、斉藤さんと初めて会ってからたった5日以内にあんな対応ができて、本当にすごい。フィクション的で、理想すぎ、という向きもあるかもしれないですが、ここまでを本当に仮に5年分として描いてたら作者さんの身がもたない。これはついていい嘘だと思います。実際には時間がかかってもこういうケアは絶対必要で、必要なひとがいて、食事なり排泄なり着替えなり入浴なり移乗なり運動なり移動や睡眠時の注意・見守りなり、「透明になってしまっている」ケアを受けるひと・するひとが世界中たくさんいるのだから、とにかく「見える」ように描いて世に出してもらえたそのことが嬉しかった。

 入浴といえば、119p、第6話冒頭、斉藤さんの「女は男が思ってるより臭いですよ」。過剰なほどの美容消臭脱毛等のコマーシャリズムや偏った情報の喧伝、月経に関する諸事情においての男女の(男女に限らないが生理学的に雌雄の)認識差を指摘する台詞で、クリティカルな発言と捉えました。横井さんはよく分からなかったっぽい。ここではまったく関係ないけど、エロ漫画を描いていながらNTRを知らなかったのも意外。なんか要求に応えて描くエロに対しての素っ気なさがあった。まあよく考えたら、社会(他人)の情報から出来るだけ離れたい・広く開放的にアンテナを張っていない暮らしなら、自分の興味のないことは知らないか。それは自分もそうでした。脱線。

 体臭の話に戻ります。現実では、似たようなことでいろいろと女性への思慮を重ねてくれて、それでも困惑している男性フォロワーさんをたまに見かけます。テレビ番組のハートネットTV?だったかな?でも観た。「踏み込むべきなのか迷う」と。そこは個人的な対人関係の信頼感や対等性なども大きいと思うので、何とも言えませんが、うーん、女性から責めたてられる男性をわたしは見たくないです。その逆を見たくないのと同じ。男性から女性に対して・女性から男性に対して・その他の性別から(&に対する)のマウント的圧力は、みな一様にないほうがよいと考えます。

 どんなひとも性別じゃなく人間として向き合えば、対応方法は見えてくる…気がします。個別にはそれでなんとか糸口を探っていくとして、マスメディアなど大衆への影響力をもつ媒体には、緩やかな宣伝傾向の変化を望みます。とはいえ、皆生活者、心苦しくもガツガツせざるを得ない現状があるとは思う。配慮は余裕のあるところに生まれる。早く現実社会全体が少しでも余裕を取り戻してほしい。日本は衰退していますが、それでもやっていく必要があります。またちょっと脱線しました、すみません。

 176p、あんしんあんぜん自宅シャワーですっきりホカホカしてる二人に癒される。かわいい。なんだかずっとはらはらしっ放しで、リラックスしてくれているシーンがあって安心しました。ふたりとも緊張の解けた自然な笑顔が素敵。そういう感じで生きていけたらいいですね。

 まとまりないですがまとめます。私事で恐縮ながら、SOGIEに関する自己紹介の記事をもし興味や暇があったら読んでもらえると分かると思うのですが、わたしは「意識・自我・意思のあるフィクションの登場人物(人間以外も)」に基本的人権と現実的友情を感じる人間です。つまり、わたしにはフィクション(ここでは漫画)のキャラクターが実在しているように感じるということです。もちろん、わたしの認識のなかでだけ実在していて、多くの他人にとって物語は虚構、というのは理解しています。

 だから、「自分みたいなのはずっと居ないもの扱いされていた」(正確な引用ではないです)と作中で言う斉藤さんには、本当に胸が締め付けられました。あなたには居場所がなかった。物語に居てはいけない、描かれない存在だった、気付けなくてごめん、避けててごめん、という感情が沸きました。同時に、同じような立場状況の現実のひとたちに対しても。また、いまの自分自身も、社会に置いて行かれている存在だなあ…と。

 ケアをする人のことも、ケアを受ける人のことも、同等にもっと多面的にいろんな作家さんによって描かれてほしい。「ケアをする人に対して必要なケア」という側面もみえてくる。自分のように、助けを求められずセルフケアの余裕もなく消耗しボロボロになってリタイアする人が減るといい。みんなケアし合うんですよ。「自分がケアしてあげてる」と思っていた対象のひとから、元気をもらって、「ああ、ケアしてもらったんだ」と気付くことは多かった。もちろん、互いに傷つけあってしまうこともあった。それも含めて、そうすることでしか表現や交流ができないひとたちとの記憶です。嫌なことは嫌だったけど、それは「ふつう」と呼ばれる社会でもよくあることでしょう。

 フィクションは魔法でもなんでも可能にするけれど、本当は現実と同じでとても不寛容な世界だ、と思う。現実の利益追求主義、資本主義を元に成り立っている。人気が出る要素を盛り込んだキャラクターが大量生産される。彼らが目立つ。もちろん彼らは魅力的だ。そうであるように作られている。わたしはそれがしんどい。人形みたいに扱われて。それを、彼らが望んでいるのなら良いのだが。だから、アイドルもののフィクションなどは案外スッと納得できる。アイドルはファン(読者・視聴者)のために装飾された自己を基本的には肯定して、公に姿を現すものだから。メタ的・入れ子的目線ですね。

 アイドルどころか、物語においてさえ無視される人間のことを描いてくれている、貴重な漫画と受け取りました。

 文章の流れが読みにくかったかもで申し訳ない。1巻を読み終えた時点でちょっと頭がいっぱいなので、いったん感想文はここまでにしておきます。2巻はこれから読みます。楽しみです。

 第2巻の感想へ続く。

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