『ダブル』ネタバレあり感想(第二十五幕まで)
2021年7月25日第二十五幕まで読了。読んだ経緯。フォロワーさんのおすすめで気になるな〜とブックマークしており、かつ7月25日まで全話無料公開というありがたいキャンペーン中だったからです。
結論だけ最初に書くと、とても面白かったです。
こちら、初見時の自分の感想ツイート(ツリー)。
Twitterでは支離滅裂に呟いてましたが、やはりちゃんと文章にしたいと思い記事にしました。真面目に書いてはいますが、単なる感想文です。
第二十五幕までのネタバレを含みますのでご承知おきください。
『ダブル』感想 前半
⚫︎最初に自分が得ていた本作についての情報は、役者の物語だということ。フォロワーさんのおすすめで色々読んだはずですが忘れました。別のフォロワーさんが主人公ふたりの関係性が〜と言っていて、ふうん、『ダブル』というのはこの表紙のふたりのことか、じゃあバディものみたいな感じかな? と。
⚫︎読み始めてしょっぱなから「知らない世界の話じゃん!!」となりました。演劇、舞台、映画、ミュージカル、どれも観たことがないわけではないです。しかし、俳優や監督の名前も、作品も、歴史も何も知りません。シェイクスピア、真面目に読んだことがありません。
⚫︎演劇・演技・演じるということ自体について、そもそも深く考えたことがなかった。わたしはそういう人間で、なのでこういうリアクションになりました。
これは知らない世界(芝居という文化、役者という職業)について知ることができるぞ、とわくわく。
⚫︎専門用語や稽古・撮影風景などは詳しい方や本職の方にしてみれば基礎的なものかもしれませんが、何も知らない人間にとっては成程、勉強になります。ただ、「職業漫画」というだけの雰囲気ではなさそう。
⚫︎作品の第一印象。「才能と、個人の人格と、環境の噛み合わせ」の物語だな〜と感じました。天才肌の多家良さんにセルフプロデュース能力や生活能力が乏しく、友仁さんがそれを補って二人一組で活動している。
⚫︎いちいち二人の距離が近い。完全に意図的で、見せるために描かれている。もし、彼ら互いに複雑な感情がないのなら、作者はこういう描写はしないはずだ、と思いました。つまり作者は描写したいか、する必要があってしている。ブロマンスものなのか、と思う。この時点で第九幕ほどまで。
⚫︎個人的な嗜癖で恐縮なのですが、メタ・フィクションが好きです。本作のキャラクターが劇中(作中作)の登場人物について、どういう人間か、自分がこの人間ならどうするか(多家良さんはほぼその人物と自分の区別がつかないレベルで役に没入している)。『ダブル』の読者はそんなキャラクター(多家良さんたち)を観ている。そういうメタ的な感覚に興奮しました。
⚫︎第十幕前後、この時点では、多家良さんと友仁さんの物理的・心理的距離の近さは、「電車に乗り合わせた正面の二人組の親密な様子が、見聞きしたくなくても伝わってくる」という感覚でした。「わたしは見るつもりはないんですが…」という気まずさ。
⚫︎なぜなら、彼らは実在しないだけで現実の人間とほぼ同じだから。彼らの領域を見てしまうことの抵抗感がありました。自分は、BL・ブロマンス作品を見慣れているほどではないにしろ、見たことはあります。自発的にも。
なのでそれ自体への抵抗感はありません。誰と誰が情緒的に深く結びついていても普遍的。ただ、彼らは自らを現実存在と認識していて、彼らのなか(世界)にもフィクションがある。「不本意ながらふたりの関係性を見てしまっている」は「入れ子構造」である本作独特の感覚でした。
⚫︎個人的に、例えば有名人の結婚報道などに対しては「それほど取り沙汰するようなものか」という価値観を持っています。そのため、作者は共依存・共生・執着といった「関係性」を描きたいのかな、だとしたら、このふたりの関係性も彼らのお気に召すまましてもらえたらいいし、読者である自分が見聞きしたりどうこう言いたくない。物語のノイズになるなら「舞台裏」でやってくれんかな、と思っていました。初見時の率直な感想です。
⚫︎執着とかドロッとした関係性・恋愛描写に関心がない自分 vs 色んなひとがいることを知りたい・彼らが物語で一個人としてどう変化していくのか知りたい自分。
この作品はもしかしたら自分に合わないかもしれない。読むのやめようかな。と思いましたが、一度興味を持ったなら、その興味を保ち続けたいと考え直しました。無関心ではいたくない。
⚫︎作品全体、テーマとしてどうしても容貌・能力至上主義、商業主義、コマーシャリズムを肯定せざるを得ない描写に思うところはありますが、これは仕方ないものだと考えます。現実も同じなのでしょうから。安易で過剰なウケ狙いの作品創りへの問題提起と解決は序盤で取り上げられていて良いなと思いました。
⚫︎前半の感想、『ダブル』を批判したいのか? と思われるかもしれませんが、わたしは結果的に、最新話まで読んで良かったと心から思っています。
それにしても、シェイクスピア『お気に召すまま』『じゃじゃ馬馴らし』、チェーホフ『三人姉妹』など、とっつきにくい古典でも物語に紐付けられると読みたくなり、親しみがわきます。これも自分にとってプラスで、ありがたい作用でした。
『ダブル』感想 後半
⚫︎後半の感想。だいたい、多家良さんの心因性失声のあたりから。この症状自体の認知はしていましたが、普段から考えているわけではないので「こういう場合にそういう症状が現れるものなのか」と(もちろん実際の医学的データとしてではなく)思わされました。これも無知。
⚫︎華々しくデビューしてファンに求められ、黄色い声や憧れや好意の目線にさらされ、ファストフード的、作中の言葉を借りれば「おやつ」的に消費されることがストレスだという多家良さん。こういった発言からも、『ダブル』のキャラクターは現実の人間と同じだ、と感じるのです。
だから、彼らをフィクションとして見ることができない。見られていることがストレス状況下にある人物に「好い」とは言えない。(「主役」二人にスポットライトを当てる関係上、サブキャラクターの皆さんが「主役」や愛姫さんらに比べてちょっと「◯◯キャラ(クール系、熱血系とか)」的なデフォルメ感が強いなと感じました、冷田さんのケアマネ能力の完璧チートっぷりとか、理想像ではあるのですが……)(メタ的言及)
⚫︎第十九幕ほどまで読んで。声なく咽ぶ多家良さんの描写が最も印象深かったです。演じることができない自分は何者なのか。演じるとは何か。芝居をすることで、他者を、世界を、少しだけ理解できるような気がする、だから芝居がしたい、という言葉。「他者(世界)を知りたい」というメッセージは非常に重要なものだと感じました。
同時に、共感も。わたし自身が生きていくなかで目指しているのも、そこだからです。他者を理解したい。なるべくなら出来る限り知って、寄り添うような対応がしたい。
⚫︎このメッセージを『ダブル』から受け取った時点で、多家良さんと友仁さんの関係性がノイズなどとはもう思いませんでした。世界を知りたい、他者を理解したいという彼らのことが知りたい。作品と読者(自分)が「対話」できた瞬間だったような気がします。
⚫︎そうか、自己と他者(世界)を学ぶために、芝居(ドラマ、舞台、映画etc)は在るのか。芝居について・演じることについて考えたことがなかった自分の、個人的な発見と納得です。
⚫︎十九幕から二十五幕までは、これは途中で止めるわけにいかないと一気に読みました。だんだんと鋭利さを増す刃物のような表情や鬼気迫る表現に圧倒される。作風にも慣れてきました。
⚫︎うまく書けませんが、恋愛感情というものは、性的欲求や、憧れ、信頼、尊敬、愛着、執着、その他さまざまな感情と絡み合っているもののようです。愛姫さんの言動によって自覚した多家良さんの発言を遮る友仁さん。「男の誠実に踏みつけにされるおんな」の気持ち。この言葉の重み。相手の心境をはからず好意を告げること。他者を踏みつけにする行為。戻らない関係性。
ここを描くために、序盤のふたりのいちいち距離の近い親密な関係描写があったのかと納得しました。このあたりの感情の機微を自分がきちんと読み取れているか自信はないのですが……。
⚫︎第二十二幕、『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』も本作で初めて存在を知りました。本当に自分は知らないことだらけ。だから知りたいのです。「愛の起源」の元ネタがプラトンの『饗宴』だとは。『饗宴』は本棚に(読みかけの状態で)あるのでさっそく読むつもりです。こういうプラスの刺激が本当に嬉しい。
⚫︎「自分で自分を演じる」という言葉がありましたが、人間は生まれて社会(家庭も小さな社会といえる)に出て、他者を認識してから、ほとんどの人が「自分を演じ」続けているように思います。
その場に相応しい「自分」を演じられなかったり、ズレや違和感が生じたとき、「自己」が揺らぐ。また、社会の仕組みや社会通念・固定観念から外れた場合、第三者から見て障害や病気と認識されたりする。
自らや周囲の人間の演技性についても考えさせられました。社会のなかで、対人関係において、なんらかの組織やグループのなかにあって、「ありのまま」でいることは非常に難しい。「ありのまま」にどんな役もこなせてある程度の管理能力のなさなども周囲に受け容れられる天才の特権。特別なひとだけのもの(もちろん多家良さんも作中で対人関係上の演技性で悩み苦しんでいるのは分かるのですが)。
⚫︎また、本作はスターの素質を持つ天才が世界一を目指す物語ゆえに、あまり際だって言及されていないけれど、演じるということは舞台上で、劇場で、自分ではない何者かになれるという変身願望を叶えてくれるものなのかもしれない。
しかし改めて思い返してみれば、「板の上で、友人として、恋人として、ただの隣に住む人として、(舞台の上で自由に何者にでもなって)語り合いたい」という多家良さんの独白も、変身願望といえるだろうか。
⚫︎学校の演劇部でも、社会人の演劇サークルでも、世界で競うプロではない一般の「役者」たちにとって、ヒーローでも悪役でも憧れの職業でも、現実を離れてなんにでもなれる、という動機で活動しているひとは居るんじゃないだろうか。子どものごっこ遊びから繋がって、社会という役割を担わせてくる存在の圧力で、自分で自分を演じる日々に気付いた時。現実の日常の演技性から隔たれた舞台上こそが自由なのかもしれない。
⚫︎現状維持で競争心がなく、のらくらと暮らしていた多家良さんが、「世界一の役者になりたい」と言う。一個人の変化に驚かされながら、二十五幕を読み終えました。
そういえば第一幕で、友仁さんも「同じ板の上で語り合えたら」とモノローグで言っていたんだな、と読み返して気付きました。
今後、ふたりが目指すのは「そこ」なのでしょう。世界一の板の上。
また続きを読むのがいつになるかは分かりませんが、本作は「なぜ人間は芝居をし、演劇や舞台や映画などを作るのか?」という疑問と、「他者を、世界を理解したいために芝居をする」というひとつの答え、非常に重要な示唆を自分に与えてくれました。
そういった意味でも、このタイミングで『ダブル』を読めたのは意義深いことだったと思います。
とても面白かったです。ありがとうございました。
(画像使用させて頂きました、ありがとうございます。)
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