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中園孔二という画家について(2021年5月22日)

僕がはじめて彼のことを認識したのは彼が死去した後のことであったが、僕の手元には、2013年に当時清澄白河の丸八倉庫7階にあった小山登美夫ギャラリーで催された、中園孔二展のDMのようなものが残っている。記憶にはないが、彼の生前に僕は作品に触れたことがあったのだと思われる。

当時僕は小学校4年生である。清澄白河は地元で、倉庫の上に面白い場所がある、なんてことを聞いてギャラリーによく遊びに行っていた。その中での出来事だったのだろう。

今日はANB Tokyoという、六本木に最近できたと思われるアートスペースへ、彼の展示を見に行ってきた。横須賀美術館での展示も、現美リニューアル明けのこけら落としのコレクション展も見に行けてないので今回がはじめて見る個展ということになる。

展示の構成は作品+インタビュー、メモ、ドローイング諸々といったところだが、貴重なインタビュー動画がかなりこの展覧会では重要な役割をきたしていたと思う。僕がこの動画内で気に留めたのは、ゴミゴミしているところ(彼はそれが渋谷や新宿であると言っていた)と綺麗なところや森を行き来することが好きだ、と発言していたところだった。僕の中で、この発言は何か絵とリンクするものを大いに感じたわけである。

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絵画とリンクする、と言ったのは、ゴミゴミするところが描かれているからとか、そういう表象的な事ではなくて、そのゴミゴミするところと、綺麗なところ、森にいくという行為の流動性やその3点の相補性が、絵に対する態度に通ずるものがあるのではないかと感じたからだ。

流動性という観点で言うなら、彼は多作なことで知られていて数だけでなく絵のバリエーションも多いわけだが、それについて前述のような行動習性、また、気分の移り変わりが、絵画によって違う側面から可視化されているように見える。

また、相補的な観点で述べようとするとまず、彼の絵は一体どうやって、どのようなプロセスを踏んで描かれたのか、いまいちよくわからない箇所が散見される。だが、それでもなお、それらは絶妙なバランスの中で絶えず存在している様に見えるし、そのバランスが彼が持つ相補的な感覚へとリンクしているように見える。そして、彼なりの哲学へとつながっている様に感じる。

しかし、哲学というほど大袈裟でもないのである。彼はただただ自分のイメージを絵画という手段を偶発的に用いて描き出しているのみであり、メタ的なものに対する大きな意識やこだわりは感じられない。本能的で、やりたいようにやる。その営為を断片的にいうならばオナニーであり、不明瞭であり、と批判されかねない。けれども、そうはさせない力がそこには確実に孕まれている。

これは、インタビュー動画を見てはじめて感じたことであるが、彼は自分の作品の所在について事細かく説明することができている。それは、コンセプトがどうこうとかそういうことでなくて、描いていて、何が起こったのか。もっというのなら、あの時、生きていて、何が起こったのか。彼は言語化しようとしていた。解像度とかそういうのはどうでも良くて、彼の中で行為の所在がしっかりとしていた。それが、あの絵をオナニーと言わせない力の源なのだと思う。

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とは言っても、哲学という言葉があまりにも重い気がしてならない。確実に彼は独自のロジックを展開しているような気がするが、それは触れられそうで触れることができず、我々に関係ありそうで、ひょっとしたら関係がないのかもしれない。

東京芸術大学大学院GAで助教の山本浩貴さんが、今回の中園展にむけて寄稿をしていた。

また、さっき本展について芸高の友達と軽ーく(一言)感想を聞いた。彼女は好きな音楽に反応したそうで、中園さんがインタビューの中で好きだと言っていた、デイダラスって人たちの曲というのがこれだそうだ。なんだか自分が置いてけぼりにされてゆく。


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帰りに、ジグソーパズルが売られていた。絶対難しい。同時に、絵もまたジグソーパズルだなと思った。

彼は、大きな大きなジグソーパズルをやり続けていたのかもしれない。全てのピースをはめることはできたのだろうか。いや、彼にとってピースなど最初からなかったのかもしれない。触れそうで触れられない。そんな複雑なような、なんでもないようなパズルを我々はただただ立ち尽くして見るのみである。

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