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高校の時の英語の先生の授業

高校の時の英語の先生(おばさん先生)の授業は、教科書をなぞって生徒に順番に訳させるというだけのものだった。別に不満は無かったが、ある時から、宿題を指示されたり音読を多くしたりと、急に授業を工夫しだした。何となく不思議に感じていると、数ヶ月後に入院か何かでしばらくお休みされるとのことで、後任の元塾講師の先生に交代となった。

後任の先生は、元の先生から授業のやり方を引き継いだらしく、その”工夫された授業”の方法で授業を進めてくれた。私は

ああ、いつもやっていた授業は、他の人に見られたら恥ずかしいものだったから、少しでも工夫した授業のアリバイを作っていい格好しようとしたのかな

と感じた。

元の先生は復帰後も一応その”工夫された授業”を続けた(少なくとも自分たちが卒業するまでは続けていた)。また、入院前は授業中の雑談などほとんど無かったのだが、復帰後は雑談の時間も少し増え、少し生徒とフレンドリーに接しようとしていたようだった。

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以上のような経験をして思ったことは、「多分何年も同じような授業を続けていただろうに、元塾講師が関わりを持つというだけで、急に授業を工夫したりするものなのだな。人間というのは、人から見られたり評価されたりする環境でないと堕落する生き物なのだな」ということ。

また、逆に、授業を毎日一生懸命、いつも教科通信・授業通信を発行してくれていた先生のことを思うと、そうした頑張ってくれていたの先生の熱意にひどく感心したのであった。

教師の世界の評価システムは知らないが、もし熱心な先生や結果を出している先生(学校の仕事は勉強を教えることに尽きると思うが、それはまた別の機会に)を評価する仕組みが無いのであれば、あるべきであろう。また熱心に取り組んでいない先生も、上記の事例のように自覚がある場合も多いであろうから、そうした仕組みがあった方が、そうした先生に授業を熱心にさせるモチベーションを起こさせることも可能になると思う(公正に評価すること自体が難しい、といった話はあるかもしれないが、それはどんな世界でも同じである。またここでいう「評価」とは、必ずしも給料に限った話ではなく、人間(同僚先生や生徒や生徒の親)同士の定性的な評価(レビュー)も念頭に置いている)。

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さて、そんなこんなを考えているのだが、昨年のニュースで以下のように吉村大阪市長(当時)が学力試験の結果を校長や教員のボーナスに反映する、としたニュースがあり、賛否両論が巻き起こったようだ。

評価の仕組み等における細かい問題点はあろうが、私は上記のような考えから大きな方向性としては賛成である。

最初から完璧は制度や仕組みの実現はほぼほぼ不可能であるのであるから、まずは大きな方向性を元に進め、少しずつブラッシュアップしていけばよいのではないか。

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もう少し一般化して人間のモチベーションの源泉はどういったものが強いか、といった話もできればと思うが、長くなったのでまた別の機会に。




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