向き、方向のはなし。。。
私が興奮するのは、「脳内のつながりが”見えた”」時。
この”私”の外で起きた事だから、途中の経緯(流れ)から辿って分かるよりハッとするその瞬間に衝撃を憶えるわけです…
そんな脳内のまとめ
“そこから読み取れること”を散々書いた。
自分の過去に、頻繁に頭の中に視ていた画・映像を言葉で簡単にまとめ、それを見ながら、“一致させた理由は何だ?”と探っていった…、でないと無意識が「何」を元に結びつけてくれたのか分からないから。
・・・ ・・・ ・・・
《あーーー、大きな概念が壊れた》
(引用は、今までに何度か触れている内容で、それを簡単に自分の中で整理してまとめただけなので、言葉から意味を詳しくとる必要はここではないと思っている。あくまでも事後の”私”が解釈していくための大雑把な記憶まとめ。重要なのは頭の中で”同じ”に見えた🔵と🔵の向き)
①②それぞれで、今まで各々で捉えていた観ていたものが繋がった。”私”という存在から”観て”いた状態からその①②というコトそのものから、それが重なるのを観た”一致”。この瞬間は静かにすごかった。脳が開けたと表現したい。
一部という部分でありながら、かなり大きなカタマリ同士が重なった、衝撃というか何というか―――
この、言葉になかなかならない、”できない”ところが「繋がれた所」で、無意識側で処理されたその結果を、こちらはただ”結果”として受け取る衝撃、興奮。”私”の範囲の結びつけでなく、機能側の寄越す大きな情報…「こんなん出ましたけど…」。
完全に※言葉の意味を無視して、「向き」だけで結んでくれた”一致”、これは本当に嬉しかった。”私”の認識する範囲「外」から飛び込んできた、という印象しかない。
※”私”が見て(読んで)そう思うだけで、脳の詳細の働きまでを言うことはできないので、「完全に」とは言えないのだけど、この”私”側から見る限りはその表現することしかできないため。自覚の範囲外だったので、あーだから、こーだからの流れが全くないものだったのでこの表現になった。
この繋がれ方をした後は徐々に「…なんで気づかなかったんだろう?」という思いが始まる。今回は記憶の再生ではない新規の配線だったから、”脳が開けた”なんていう言葉も出るのだけど、意識に上がり、そこからしっかりと思考で何度か確認することで、”私”が今後活かせる知識となる。体験からの確かな記憶への流れでもある。
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🔵が共通してた。
”私”が気づかなかったと思われる理由は、”私”の中で「主」と位置付けていたものが「逆」だからじゃないか。私の概念、主・順、「それ」を考える時に自然と無意識に使い、その位置づけで考えられていた事が、この時はそこに挟まる”私”が抜けて「直接」結ばってくれた状態。ほぼ”向き”だけで拾っているように感じた。
①②につく言葉たちは、あくまでこの”私”がアタマの中のイメージ、そう感じるものに付けた言葉であって、これ自体もこの”つなぎ”には関連してこない程に抑え込まれている(状態)ダイレクト。だから”私”が理解(確認)のために、今までの記憶からまとめた理屈(引用)を照合するとすべては「合っていない」ことが分かる。
”私”というのは頼もしいのだけど、持っている理屈が正しいかどうかは怪しい…という事が言えると思った。”私”とは、そういう存在でもある。
(両方を観ることができる状態だからそう言えた。片方なら私は”私”を、あまり疑わないだろう)
「大きな概念が壊れた」
これも同時にその反面も拾っていた。「ん?作られたんじゃないかな…」と。
言葉はいつも”私”側から付けられる。だから「その事」に対してこの”私”はその状態をそう解釈するわけで、再びその”状態”の位置に戻ると、改めて”作られた”とみえた。という事は、作られる(た)瞬間のことを、私たちは認識することが難しいのかもしれない。それはこの”私”という存在がいつもその状態とのあいだに挟まるから。それによってこの目からコトは発せられてしまう事が多いのだろうと思った。
この”私”という存在自体が、「フィルター」というものだったんだ。
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「流れが”主”である事と関係ない」
表で今まで表現していたこと自体は、特に何でも良いのだけど、内側の”私”の奥で無意識に持っていた「→」の向きを「主」とする感じ方の誤りを書いている。
誤りとする事も極端かもしれないけども、「→を主とする前提」がなされている奥側に確実に訂正が入ったという事だ。
ここからは上記をここに移しながらポツポツ感じた事を含めて―――
①🔵の目線を表現上は「振り返る」という「逆」を向く動作として使ってきたものが、”始まった”時にはnoteを書きながら「”向き”が重なる」のを観ていた(脳裏を流れて行った)。それにより、「”同じ事”を言っていたのか…」と、今まで分けて観えていたそれぞれのコトが、向きで重ねられたことで「ひとつ」に感じた。
また、時間が経てば頭はどんどんその事をまた”分かろう”として、こうして書いていく度に違ったものが観え加わっていく”具体”。ここにも「ただその事が起きた流れ・体験」を「振り返ることでどんどん詰まっていく“人の向き”」が見て取れる。
そしてこの振り返り、この起きた事を”私”が改めて観る「この向きの時」に、表のエピソードとは違う奥側では、人としての私の時間・モノガタリが着実に生まれる向きなんじゃないかと感じた。これは今までの感覚と少し違うことを自覚している。
この部分が、「奥側の訂正」と表現する部分で、前提に持っていたものが崩れて観えたものという事ができる。”時間”というものの流れが一方向・一つという強固な無意識での前提から、新たに「自分というものが創られるその”時間”の立ち昇り」とでも言うような、同じくらいの線の太さでそれぞれの”時間”を今感じられている状態。
正しいとかは思っていなくて、「”自分”というものの時間がはっきりと動き出した」という言い方が出来るように思う。
概念が壊れた、確かにこの表現は合っているし、「いや、作られた」も合っている。それぞれにあった枠、括りが解けて繋がれば、それは同時に現れることだと思うから。
メモを含めてここまで表現したことの内容自体というより、何よりも一番喜ぶのは、この内側で起きた事をその時に観ることができた、ということ。脳の動き方、”私”をすっ飛ばした結びに感動したし、”私”はいつもちょびっと間に挟まっているだけなんだな…と感じた。
その”ちょびっと”の存在でも、こうして事を具体的にし、もう一度自分にこれを見せることで”入力”し、それが記憶となりまた別の何かの材料にできる…。
私が自覚している範囲と、まったく無意識で自覚の外にあるものとは、こんな風に絡み合いながら「自分」が編み込まれていくのだと、そんな風に思った。