ここは”いつも通り”
ヘンな時間に横になり、おかしな時間に起きてしまったので、頭を使わずに出るものでサクッと終わります(笑)
ちょっと刺激に使いましたーーー、”X”のタイムライン。読むとなしにただザッと一瞬流し見た程度に。
その時も頭は完全に寝起きのボーッとした状態なので、しっかりとした”思考”をしていない状態なので、”感じ”だけを拾った。
⦅あぁ、こうやって外はいつも通りだ(笑)⦆
この感覚は私にとって以前からかなり重要なもので、同時にこれがある事で安心をそこに感じられているように思う。
この一日に特にイヤなことがあったなど、そういうわけでなく、寧ろいつもの夕方の”緑タイム”では、「今日もほんとに順調な一日だったよ、ありがとう」と言ったくらいで、”良い日”と感じているわけで。
主人のところへ面会に行き、その帰りに少しの買い物の予定が、「いや、今日はしっかり買おう!」と、食べられなって困るものでなく、目が欲しいものを少し多めに買って帰宅。
遅い昼食から、少し調べたりしての一人時間もしっかり使ってスムーズだった…だからヘンな時間に眠くなってしまったのだけど。後でこれでは持たないと分かっていても、その時は眠りに就けなかったから仕方ない。
昨日の面会はなぜか何も言われず(笑)、他の人のところには病棟スタッフが声をかけに来ているようなのだけど、一向に終わりの時間を言われずに…。お陰で今まで話せなかったこともしっかりと話し込み、終いには「もういいよね(笑)」と切り上げてきた。
本人が相変わらず明るくいることは本当に良いことで、普段通りに会話をする事ができた。ただ、動くということを全て意識的に行っている状態なので、「疲れる」と話していた。夜も早く寝る人じゃなかったのでどうしているのかと聞くと、疲れて眠っちゃうと言っていた。
そんな、”私界隈”では今までとは違う出来事が現にあるのだけど、まったく関係しない”外の世界”においては、今日もいつも通り、普段通りであるという事、これが私にとってはとても嬉しいことで。なぜか分からないけどもホッとできる思いを感じる。
それはこの私が居る世界においては、確実に”いつもと違う”事が起きている状態で、それと対比するように外にはいつも通りがそこにきちんとあって。私はこの感じに安心を得ている。
主人との会話でも「良かったね」という内容でしかないのだけども、それでもこれを大きく見た時には”別”の動きの中にあるわけで、恐らくそこからの感覚が生きているのだろうと感じた。
今までの日常とは明らかに異なるのは確かなことで、ここに今までの普段との違いを自覚せずとも動かしている(動いている)状態がある、と感じた。だから”いつも通り”という雰囲気に安心する。
そんな事を思うと、「人」というものが、ますます今までの”私”という存在側でないという事を感じる…、これはこの自分の「奥の方の在り方のスイッチを切り替える」ということで観方を変えられる(と思う)。
で、その辺りから観ると、”私界隈”と”外の世界”は決して分かれているわけじゃなくひとつながりではあって、だけど”私”が少し思考を強めてそれを観る時それは、分けられたようなそれぞれ、という風に見てしまう…というより、そこに言葉を付けることにより、この見え方に分かれてしまうのだと思う。
昔は、「この私に関係なく外はいつも通り」のことを、こういう見方をしていなかった。でもただそうある外の世界に対して私は”笑えた”わけで。(過去にワン達のエピソードを用いて書いた)
シンプルに、ただ”笑えた”という結果しか受け取れなかったものが、今はそこまでの経緯が、自分の中から出てくる様になった。
自分の環境、事情に関わりなく、外は今日も外である事は救いと思う。
そしてこれは表現すると、まったくコトを分けて観ているようで、実はしっかりと繋がった話をしているのだと、寝起きのボーッとした頭への刺激のお陰で、この反応で出てきてくれた事もまたありがとうだった。
「いつも通り」がどこかにあるだけで、人は落ち着く事ができると思う。